遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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「いる」と「おる」の記事は御託が長かったので分割してのその続き。
先の記事にも書いたけれども根拠を示して述べている訳ではなく、あくまで個人的な想像による推測によるものであります。
具体的な会話で違いの傾向をみてみると(大分誇張しているが)
「いる」の場合
「さっきいまでいただんいんくなった。」(さっきまでいたのにいなくなった。)と言われて
「どこ行ったよう。」(どこに行ったのさ。)と問うても
「さあ、知らんだあ。」(知る由もなし。)と返される事が多い。
次に「おる」の場合
「さっきいまでおっただんおらんくなった。」と言われて
「どこ行ったよう。」と問えば
「よくは知らんだあなんか忘れたみたいでどっかへなんか持ち行っただらあ。」
(細かいことは分からないんだけど何か忘れ物したみたいでどこかへ何かを取りに行ったんじゃないの?)
みたいになんとなく答えが返ってきたりする。
くどいが必ずこうなるというものではなく傾向として
「いる」・「いん」は関知していないと暗に言ってる要素があるので素っ気ない返事しか返ってこないことが多い。無論ちゃんとした返答が返ってくる場合もあり「いる」=「関係性希薄」を表わしている訳ではない。まあ「いる」は共通語なので万能に使えるからそれとちゃんぽんになってるところであるが。
「おる」・「おらん」は大なり小なり関知してる勢いがあるのでなんらかの返答が返ってきたりすることが多い。「おる」・「おらん」を使っているのに素っ気ない返事をされると冷たいと思われたりもする事も稀にある。
「この中に怪しい奴はいん」と「この中に怪しい奴はおらん」だと「いん」は共通語の「いない」と同じなので説明を省くが「おらん」とした場合「この中の人」は全て見知った人物達という風に読めることになる。
「この中に知ってる奴がいん」というよりも「この中に知ってる奴がおらん」という方が感覚としてしっくりくる。
こういったものは明確な使い分けが存在しているものではなく、どちらをどう使おうが何の問題もないのだが、無意識のうちに感覚的な直感によって選択されるものであろう。なので法則とか決まりは存在しない。
傾向という事ではこの他に
他人といった距離なら「いる」・「いん」。身内や仲間という距離なら「おる」・「おらん」を使う傾向もあるし。
「あの野郎いんじゃねえか。どこ行っただあ。」とかのように興奮したような状態には「おる」・「おらん」はどちらかといえば使われない傾向とかもあろうし。
「おらんたあ何事だあ」というよりも「いんたあ何事だあ」と言った方が怒ってる感がある。
「いん?」(いない?)と聞かれて「いん」(いない)と返す。「おる?」と聞かれて「おらん」と返すように同じ言葉で返すのが普通で「いる?」と聞かれて「おらん」と返すのは珍しいという傾向にある。もっとも「おる?」と聞いたのに「いん」もしくは「いんわあ」と返されると「あ、怒ってるんだな」と解釈できることになるが。
「おる」・「おらん」は印象として穏やかな雰囲気があり緊急とか怒ってる時とかでは発しない傾向にあるともいえそうだ。「おった」というよりも「いた」という方が切迫感がある。
まただらだらと長くなってしまったが
「いる」は共通語でありどんな使い方でも違和感は湧かないものであるが、「おる」は辞書等に記載はあるがどちらかというと方言の部類に入るものであって「いる」ほどには万能な使い方ではない部分がある。
「いる」は共通語がもつ感情が読みにくい部分があり方言の特徴である感情が読みやすい部分をもつ「おる」とをそれなりに使い分けて関係性・緊急性等の違いを表現してるといえるのかもしれない。
くどいようだがこういったものはあくまで無意識での直感による選択によるもので決まりがあって発してる訳ではない。