遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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辞書に載ってるくらいだから別に遠州弁というものではないが
「こさえる」漢字で書くと「拵える」。
「こしらえる」の俗語表現と説明にある。「こしらえる」も漢字で書くと「拵える」となる。
「たんこぶこさえる」(たんこぶ作る)
「愛人こさえる」(愛人を作る)
といったように「作る」と訳すのが妥当なところであるが「出来る」という訳でもはまる感じがする。
「こしらえる」というのは辞書を引くと①何かを元にして形のあるものを作り上げる。②いろいろ方法を尽くして、なんとかかっこうをつける。とあって、意識的なものを感じるものである。
遠州弁でももちろん②の意味使いでも使いはするがそれ以外に
「こさえる」で「たんこぶ」などは意図して作るものではなく作って(出来て)しまったという意図しない勢いをより感じる。「たんこぶこしらえた」と言うのでは少し違和感を覚えるものである。
「こしらえる」が意識(作為)的にという勢いだとすると若干異なる言葉と映らなくもない。どちらかというと流れとして結果作られたみたいな「成り行き」を感じさせる勢いが「こさえる」にはある。
これが遠州弁独特な感覚なのかどうか定かではないが、そういうニュアンスで使われる事が多い。つまり、「こしらえる」(作る)は意図的、「こさえる」は成り行き的といったような。
他には
「明日ハイキング行くで弁当こさえて。」とは普通言わず
「明日ハイキング行くで弁当作って。」もしくは「こしらえて」と言うものである。
「せっかく弁当こさえただに『やっぱいい。』ってなによを。」という言い方はする。これだと善意・好意で弁当を作ったというよりも依頼・要望があったから作ったという勢いを感じるものである。もしくは多少「作ってやった」という押し付けがましさが加味される。
「せっかく弁当作っただに『やっぱいい。』ってなによを。」もしくは「こしらえた」だと自主的に作ったという場合も有り得るところである。
つまり「こさえる」のはあくまで自身がであって他人にさせるという「こさえさせる」・「こさえさす」という言い方はあまりしないということ。他人にと言う場合であれば「作らす」とか「こしらえさす」という言い方をするものである。
といった感じで「こしらえる」と「こさえる」はニュアンスが異なって聞こえるものである。この感覚が遠州弁独特なのかは定かではない。
例文
「あんたあ、はあ晩飯こさえてるだ?」
「いんや。これから買いもん。今日なににせすかまだ考えてるとこ。」
「ほいじゃさあ。ちっと遠くだけどお、ほげほげスーパー行ってみん?今日お魚の特売やってるだって。一緒にいかん?」
「いいけど、うちの肉食わしょーってこうるさいだよ。だで肉くれんとかんだけどあそこお魚専門じゃんねえ。」
(いいけど。うちの亭主肉食わせろってぶつぶつ言ってるのよ。だからお肉出さないといけないんだけどあのお店魚専門だったよねえ。)
「いいじゃん。行きでも帰りでも、うはうはショップ寄りゃあ。」
「で、その帰りに、あくまでついでであそこ寄る訳ね。」
「そう。あくまでついでで。」
「ま、いいかあ。じじばば魚の方が喜ぶでえ。でも何種類も作んのめんどっちいやあ。」
「鍋にすれば?」
「成程お。じゃ行きますか。」
例文音声はこちら
おっかさ連中が一人では行きづらいが時間をやりくりしてでもいきたいとこってイメージが湧かないので想像にお任せしますわ。
この会話での注意点は「くれる」。犬に餌くれるといった「やる」・「くれてやる」といったニュアンスなので他人に向けて使ってはいけない。
「うちの」で連れ合い、つまり旦那・妻・(たまに自分の子供)を指す。