遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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「いい加減にしろやあ」・「いい加減にしてやあ」
「大概にせろやあ」・「大概にしなよを」
どちらも「やめろよ」と言っている訳であるがどう違うのか。あくまでも遠州弁における場合。
「たいがい」から受ける印象は「そろそろ」といった潮時というかタイミング。
「いい加減」から受ける印象は「我慢の限界」といった度を越えての発言。
他の言い回しで「ほどほどにしなよ」だと加減をしろであって「やめろ」とは限らない。
「仏の顔も三度まで」の場合これを言い換えるとすれば「いい加減にしろ」なのか「大概にしろ」なのかどっちが適当なのか。
ちなみに辞書を引くと
「いい加減」{副詞}限度を超えていてそろそろなんとかしてもらいたい感じだ。
「大概」{副詞}常識で・当然だと思える(がまん出来る)程度。適度。
とある。遠州弁でもこんな感じでまあ大して共通語と離れたものではなかった。
これから想像するに仏の顔が三度目までが「たいがいにしろ」で四度目以降が「いいかげんにしろ」という事になるんじゃないのかと。
理屈はそうなんだろうが、実際のところは「たいがいにしろ」と発していても十分怒ってる事が多くすごくは差が生じていない。つまりどっちが言い易いかという人によりけりで意味的に違いは無いという感じがする。
まあ「大概を」使うと幾分まだ余裕がある雰囲気にはなるし「いい加減」は切羽詰まった印象が湧くところである。
それと「大概」は年配の人が発するもので子供は言う事は少ないという事も違いとしてはあろうか。
それはある意味おもちゃとなればすぐ欲しがるというような若ければ若いほど「大概」という概念が薄いものだとも勘繰れなくもないが。
どちらも「人の忠告聞かないからだよ」と言っている訳であるが。
この違いは
自業自得だねといった勢いなのが「ほれみっせえ」(そらみたことか)・(いわんこっちゃない)。もう俺は知らないよという思いが暗に籠もってる事が多い。
それなりに心配してるのは「だでゆったじゃん」(だから言ったでしょうに)。こうなってもなんとか手助けしようという勢いが含まれる。ただしこの後の主導権は奪われるものと覚悟した方がいい事が多い。
この他には「ほれみい」という言い方もあるが、こちらは前の二つの中間みたいなニュアンスである。見捨てたとも助けるともどちらとも取れるものである。
「もう~ゆったじゃん」・「あれほどゆっただにい」とかになるとヒステリックな状態になっていると思った方がよくそっちをなだめる方にも神経を使わなければならなくなるのでここに挙げた中で一番言われたくない表現である。
いずれも言われたくはないものだがせめてどうせ言われるなら「だでゆったじゃん」がいい。というかマシ。
例文
「やいやい失敗こいちゃってえ。」
(あ~あ、失敗しちゃったよ。)
「ほれみっせえ、人のゆうこんちゃんと聞かんもんでえ。」
(いわんこっちゃない。人の忠告ちゃんと聞かないからだよ。)
「やいや失敗こいちゃってえ。」
「だでゆったじゃん。ちゃんと人んゆうこん聞きない。」
(だから言ったでしょうに。ちゃんと人の言う事聞きなよ。)
「やいやい失敗こいちゃってえ。」
「ほれみい。人のゆうこんちゃんと聞いてりゃ良かっただにい。」
(ほらあ、人の言う事ちゃんと聞いてればよかったのに。)
「やいやい失敗こいちゃってえ。」
「もう~ゆったじゃん。なんで人の話し聞かんよを。」
(も~あれほど言ったでしょうに。どうしてそんな自分勝手にやるんだよ。)
「新聞紙」。あくまで遠州弁(遠州地域)でも一部地域における普段遣いでの話しです。ただしもう使われていない言い方でありましょうや。「しんぶんがみ」と言う人よりも「しんぶんし」と言う人が遠州では圧倒的に今は多いと思われるので実質昔話みたいなものです。
「しんぶん取って」と言えば記事に用があるというごくごく普通の新聞の用途として使う意図と解釈される。
「しんぶんし取って」と言えば紙を包装紙代わりにしたり・爪切るときの敷物にしたりなど他の用途で使う意図があることと解釈される。
では「しんぶんがみ取って」と言うとそれはどういう意図でそう発するのかというと、集落によって違いはあるだろうが私らんとこでは「便所紙」(べんじょがみ)と同様の汚れた物を拭いたり包んで巻いて捨てるみたいな使い捨ての雑巾代わりとして使う際にそう呼んでいた。今だとティッシュペーパーとかになるのであろうか。もちろん「しんぶんがみ」で洟をかむとかはしなかったが万が一便所紙が切れた時にはよく揉んで代用としたりは出来た。
知人に訊いたとこでは「折り紙」・「千代紙」みたいな適当なサイズに切り揃えて用途はもう忘れたが何かに使っていてそれを「しんぶんがみ」と呼んでたそうな。
複数人に訊いてみたら「しんぶんし」と「しんぶんがみ」についてはこれほどまでにそんな明確な使い分けがされていた訳ではなく、こういう際に新聞紙をつかう時は「しんぶんがみ」でこういう場合には「しんぶんし」と言うみたいな用途によって言い分けるということでもないようだ。
ただ新聞の形そのままで別の用途で使われる場合には「しんぶんし」で、切ったりして形を変えたうえで使われる場合に「しんぶんがみ」と呼ぶという傾向は私らん集落のとこではあったようだ。
「お風呂沸かすのに新聞紙を燃やいて火い点ける」とかいう場合は「しんぶんし」と言う。
「新聞紙で折り紙折る練習する」とかいう場合は「しんぶんがみ」と言う。という感じであろうか。
こういうのは一部地域のみの可能性が高いので、まあ遠州全体として無難な答えを探すとなるとそれぞれ家庭ごとに「しんぶんし」と言うか「しんぶんがみ」と言うかそれぞれだったというところに落ち着きそうではあるが。
昔は新聞といえば、包装紙としたり畳の下に引いたり洋服ダンスの中の衣類の仕切りにしたり汚れたものを拭き取る紙とかお風呂の火を点ける時とか水の吸い取り紙としたり梱包の際の緩衝材としたり家具と畳の間にはさげて畳が傷まないようにしたり傾きを調整したりなどなど挙げたらきりがないくらいな生活するにおいての必需品であった。
そうそうお弁当、アルマイトのお弁当箱を新聞紙で包んで学校にお出かけしてたっけ。必ずと言っていいほどおつゆがこぼれてるものだったけど新聞紙から漏れて教科書やノートがべとべとになるってことはなかったなあ。ちなみにこの場合は「しんぶんし」。
それが今はもう殆ど新聞の役割はニュースを伝えるというものでそれが済めば廃品回収へと流れていくのであろうか。故に「しんぶんがみ」という言い方(使い方)は今は死語となっているであろう。節約の美徳よりも「しみったれ」てる事を嫌う世の中だから。
「じじばば」でひとつの言葉であり「じじ」・「ばば」と分割することは無い。分ける場合には「じいさま」・「ばあさま」とかになるであろうか。「じじ様」は無いが「ばば様」があるかどうかは微妙である。
他の地域はどうなのかは知らないが遠州弁に於いての「じじばば」は慈しみのこもった言い回しである。
労わりというニュアンスも多分に含まれている。
ただしそれは大人が発した場合であって、子供が発するとその効力はなく小馬鹿にしたようなものになる。ここでの大人と子供の境界線は微妙に曖昧であるが小学生までが子供で中学生から上が大人というのが境界線であろうか。まあ中学生は「じいちゃんばあちゃん」であって「じじばば」と発することはまずないだろうが。そうなると無難なとこで高校生とした方がいいのかな。
そして大人であっても身内のこととか知人の親のこととかでは意は慈しみであるが赤の他人に対して発すると微妙にはなる。
ちなみに悪態系の表現となると「じじい・ばばあ」という言い方になる。ただし、愚息というように身内をへりくだって言う(例えばこんぞう・むっすう)ような使い方の場合はこの限りではない。
例文
「やあ、帰りんみかんよかったら持ってってやあ。かたちん悪くて出荷でけんのだけど味はいいで。」
(なあ、帰る際に家で作ったみかんもしよかったら貰っていってくれないか。形が良くないから出荷できない奴だけど味はいいから。)
「悪いやあ。にしたってけっこうあるじゃん。」
(ありがとね。遠慮なく貰うわ。それにしても沢山あるねえ。)
「こらしょとあるでどんどん持ってって。」
(いくらでもあるから遠慮せずに持って行ってくれよ。)
「仕事忙しいだにみかんやってる時間よくあるねえ。」
(仕事で忙しいのにみかん農家やってる時間なんかよくあるもんだねえ。)
「うちんとこのじじばばん楽しみでやってるだよ。わしたんまに手え出すくらいでえの。」
(家のじじばばが老後の楽しみとしてやってるんだ。おれはたまに手伝いするくらいなもんさ。)
「そりゃ元気でなによりだの。」
「持ち行く」は遠州弁だそうで共通語に直すと「取りに行く」となるそうな。
「持ち行かれん」と「持ち行けれん」を訳さば「取りに行かれない」と「取りに行けれない」ということになる。
このふたつはどう違うのかというお話し。必ずしもこうだと言い切れるものではないがこういう傾向はあろうか。
「持ち行かれん」は本人は行く事は可能(行く意思はある)だが当人以外のところに障害(理由)があって行けれないと言っている。それとその理由が一時のものではない場合に使われる表現でもあろう。
「持ち行けれん」は本人自体が行く事が出来ない理由を抱えていると言っている。それと理由が一時のものである場合に使われる傾向があろう。
忙しくてという理由の場合「忙しくてとても持ち行けれん」というのにざらつきは感じないが「忙しくてとても持ち行かれん」だとちょっとざらつき感がある。なぜならのべつまくなし忙しいなんてことは普通有り得ないだろうと思えるから忙しいのが理由でずうっと行けないというのは方便くさいからである。「行けれん」なら手が空いたら行くよと言ってる風に聞こえるものである。
車が無いのでという理由の場合「車ん無いで持ち行かれん」・「車ん無いで持ち行けれん」のどちらも違和感はないのだが「行かれん」だと今後もずっと行けないという雰囲気となり「行けれん」だと車さえ都合つけば行く事が出来るという風に聞こえてくる。相手がもし言い訳・方便と捉えた場合「行かれん」とした場合の方が「要は行く気ないんだろう」などとけっこうな突きあげ(反論)される事が多々ある。
ここまで明確な区別が実際は成されている訳ではないが
「あんたいつんなったら持ち行くよを。」
「ど忙しくて持ち行かれんだもんしょんないらあ。」
「忙しいたって呑み行くとか遊ぶ時間あるだらあ。忙しいなんて言い訳んならんにい。」
という風に突っ込まれやすい。物は言いようで
「ど忙しくてなかなか持ち行けれんだよ。勘弁してやあ。」
とか言えば多少はしょうがないなあという気になってくれたりもする。