遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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完全に失念してたと言っている。思いっきり忘れてたという勢いである。
「~かある」という言い方はどうも方言らしい。訳すと「~しまくる」という事であって裏返るとかの「返る」ではない。遠州弁では他に「ちんぷりかある」・「ぶすくれかある」・「ふんぞりかある」とかいう言葉も有る。
「忘れかあってホントしょんない」を訳すと「忘れまくりで本当にどうしようもない」という風になる。
近い言葉を探すと「静まりかえる」・「あきれかえる」といったものと同じに思えるところでこれらの「かえる」は「反る」と書くので「わすれかある」も漢字にすると「忘れ反る」と書くのだろうな。蛇足だが「そりかえる」は「反り反る」と書くのかなと調べたら「反り返る」だった。なので「ふんぞりかある」の「かある」は「わすれかある」とは別物かもしれない。
「反る」(かえる)
辞書にはその状態以外のなにものでもない事を表わす。とある。
古語辞典では(動詞の連用形に付いて)動作・状態のはなはだしい意を表す。とある。
どちらでも当てはまりそうだが、古語辞典での「はなはだしい様」という方が勢いとしては近いか。その状態以外のなにものでもないとかだと「ど忘れしてた」が当てはまりそう。
そういう意味では「わすれかある」の訳は「はなはだしく忘れる」とするのが妥当となろうか。
この表現の効能はウソ偽りなく状況を正直に告白してるという風に捉えらえるので「ど忘れしてた」だとむかつかれるが「忘れかある」と発すれば呆れられる勢いになる。もちろん怒られかどうかはその状況によりけりであるがそれでも言い訳してない分多少は怒られる程度は小さくなるであろう。もっとも以下の例文のように別の理由をつけられて上げ足取られる(怒られる口実を与える)事はあるが。
例文
「君こないだ頼んどいたのはあでけたかね。」
(君この間頼んでおいた件はもう出来たかね。)
「あ~、忘れかあってたもんで今必死こいてやってます。」
(え~とですねえ、すっかり忘れてまして今懸命にやっております。)
「困るなあ君。頼むにい時間迫ってるだで。」
(困るじゃないか君。もうホント頼むよ時間迫ってるんだから。)
「すんません。」
「ところでいつ気づいただ?」
(ところでいつ忘れてたって気づいて始めたんだ?)
「いやあ、今言われて・・・。」
(実は、今言われて・・・。)
「おい、それじゃやってますじゃありもんしんに。やりますだらあ。」
(おいそれではやってますじゃないだろうやりますだろう。)
「そうともゆうわなあ。」
(そうですねえ。)
「ばかっつう。なにもやっちゃいんっつうこんじゃんか。なんしょ間に合わんかったら後で説教だでなあ。」
(ばかもん!何も手を付けていないって事じゃないか。とにかく間に合わなかったらただじゃ済まさないからなあ。)
全くの感覚で物を言っていて根拠もなにもあったもんじゃないけれど
遠州弁の感覚での「いる」と「おる」について、例えば
「そこにいる」と「そこにおる」では微妙にニュアンスが違う。尚、「おる」が年寄り表現で「いる」が全年齢の表現というのは遠州弁には当てはまらないと思われる。
必ずこうなるというものではないけれど傾向としては
まず距離感、部屋の中に居るとかいうある程度の距離を感じているのなら「いる」で横に居るとかいった近い場合には「おる」を使う。
次に把握度合、何してるか分からんがとにかく視野の中に入っている状況なら「いる」で一緒になにかしてるといった何してるか分かってる状態には「おる」。親密度・協調度合いの違いという事もいえようか。
先の把握度合度とは相反するものであるが、ぼ~っとしてなんとなくそこに存在してる場合は「おる」、なにか用があってここに居る場合は「いる」を使う。
この相反する使い分けは自分がぼ~っとしてる立場なら後の形になり、自分が忙しくなにかしてるとかなら前の形での言い回しとなる。つまり自分と同じ境遇・状況であるなら「おる」、自分と違う事してるとかの場合であるならば「いる」になるといえる。
そして、丁寧な物言いということでは「いらっしゃる」と言うよりも「おられる」を発する。例えば「奥さんいますか?」という場合「奥さんいる?」というよりも「奥さんおる?」と声かけることが失礼がない。ちなみに「いらっしゃる」だと「お見えになる」と解釈する傾向にある。
他には、打消しの「いん」と「おらん」とした場合、「いんとかん」は「いなければいけない」、「おらんとかん」は「いないといけない」。蛇足だが名古屋的な「いんでかん」・「おらんでかん」という言い方は遠州弁はしない。「いんもんでかん」・「おらんもんでかん」・「いんくてかん」・「おらんくてかん」とかいう言い方をする。
これら使う状況によりこういったニュアンスの違いが加味されるということであるが全て条件を兼ね備えていなければならないということはもちろんない。例えば「おる」を使うには相手を把握しつつ近い状態にいてかつそれなりに丁寧に言いたいという条件が整った時にのみ使われるという事では無い。
遠くにいるけど見えていて何してるのか把握してるとかで「おる」を使ってもおかしくないし
すぐ横にいるけどなんでここにいるのか承知してない時に「いる」を使ってもおかしくない。
どれかひとつが条件にあえば別にかまわないのである。
といった風に「いる」と「おる」は使い分けがされることが遠州弁ではある。
「いる」と「おる」の記事は御託が長かったので分割してのその続き。
先の記事にも書いたけれども根拠を示して述べている訳ではなく、あくまで個人的な想像による推測によるものであります。
具体的な会話で違いの傾向をみてみると(大分誇張しているが)
「いる」の場合
「さっきいまでいただんいんくなった。」(さっきまでいたのにいなくなった。)と言われて
「どこ行ったよう。」(どこに行ったのさ。)と問うても
「さあ、知らんだあ。」(知る由もなし。)と返される事が多い。
次に「おる」の場合
「さっきいまでおっただんおらんくなった。」と言われて
「どこ行ったよう。」と問えば
「よくは知らんだあなんか忘れたみたいでどっかへなんか持ち行っただらあ。」
(細かいことは分からないんだけど何か忘れ物したみたいでどこかへ何かを取りに行ったんじゃないの?)
みたいになんとなく答えが返ってきたりする。
くどいが必ずこうなるというものではなく傾向として
「いる」・「いん」は関知していないと暗に言ってる要素があるので素っ気ない返事しか返ってこないことが多い。無論ちゃんとした返答が返ってくる場合もあり「いる」=「関係性希薄」を表わしている訳ではない。まあ「いる」は共通語なので万能に使えるからそれとちゃんぽんになってるところであるが。
「おる」・「おらん」は大なり小なり関知してる勢いがあるのでなんらかの返答が返ってきたりすることが多い。「おる」・「おらん」を使っているのに素っ気ない返事をされると冷たいと思われたりもする事も稀にある。
「この中に怪しい奴はいん」と「この中に怪しい奴はおらん」だと「いん」は共通語の「いない」と同じなので説明を省くが「おらん」とした場合「この中の人」は全て見知った人物達という風に読めることになる。
「この中に知ってる奴がいん」というよりも「この中に知ってる奴がおらん」という方が感覚としてしっくりくる。
こういったものは明確な使い分けが存在しているものではなく、どちらをどう使おうが何の問題もないのだが、無意識のうちに感覚的な直感によって選択されるものであろう。なので法則とか決まりは存在しない。
傾向という事ではこの他に
他人といった距離なら「いる」・「いん」。身内や仲間という距離なら「おる」・「おらん」を使う傾向もあるし。
「あの野郎いんじゃねえか。どこ行っただあ。」とかのように興奮したような状態には「おる」・「おらん」はどちらかといえば使われない傾向とかもあろうし。
「おらんたあ何事だあ」というよりも「いんたあ何事だあ」と言った方が怒ってる感がある。
「いん?」(いない?)と聞かれて「いん」(いない)と返す。「おる?」と聞かれて「おらん」と返すように同じ言葉で返すのが普通で「いる?」と聞かれて「おらん」と返すのは珍しいという傾向にある。もっとも「おる?」と聞いたのに「いん」もしくは「いんわあ」と返されると「あ、怒ってるんだな」と解釈できることになるが。
「おる」・「おらん」は印象として穏やかな雰囲気があり緊急とか怒ってる時とかでは発しない傾向にあるともいえそうだ。「おった」というよりも「いた」という方が切迫感がある。
まただらだらと長くなってしまったが
「いる」は共通語でありどんな使い方でも違和感は湧かないものであるが、「おる」は辞書等に記載はあるがどちらかというと方言の部類に入るものであって「いる」ほどには万能な使い方ではない部分がある。
「いる」は共通語がもつ感情が読みにくい部分があり方言の特徴である感情が読みやすい部分をもつ「おる」とをそれなりに使い分けて関係性・緊急性等の違いを表現してるといえるのかもしれない。
くどいようだがこういったものはあくまで無意識での直感による選択によるもので決まりがあって発してる訳ではない。
書き忘れたことがあったので追記。
長々と書いている「いる」と「おる」のニュアンスの違い。これは「居る」という場合に限定したものであって
例えば「やっている」→「やってる」、「やっておる」→「やっとる」といったものには該当しないものである。
「やってる」と「やっとる」などの違いは全国的に感じられる「やっとる」・「見とる」・「しとる」・「生きとる」などなどは使用年齢がお高めの言い回しというものであり若年層が「やっとる」とか発するというのは関東の人々が抱くのと同じで違和感を伴うことになるのは遠州でも同じである。
「やっとりゃせん」とかいった名古屋系の表現とは遠州は異なるものであろう。遠州弁だと「やってえへん」・「やっちゃいん」などが使われる。
他にも「見てみたくない?」だと「みとうない?」とは言わず「見てみたいらあ?」とかで「いる」と「おる」を主に使う境界線があるとしたら遠州は「いる」を使うエリアに属する気がする。
「走り回る」に「くり」を挟んで「はしくりまわる」傍若無人に走り回る。
「混ぜ回す」にも「くり」を挟んで「まぜくれまわす」これでもかというくらい混ぜ回す。
「くり・くれ」が入る事によってニュアンスは不必要にとか必要以上にとか強引に意味もなくといったものが付加される。その光景を見た様は横暴・ぞんざい・我を忘れてなどといったものである。訳すとしたら「~しまくる」・「~したおす」といったものであろうか。
状況例としては、子供が興奮してはしゃぎまわる姿を見て「くるってはしくりまわるじゃないに」(興奮してそこらじゅう走り回るんじゃないよ)。
「くり」はなんだというと上の例のニュアンスから推察してくと「走り狂いまわる」と「狂う」の変で「くり」となったというのが考えられるがこれでは「まぜくれまわす」にこの理屈はどうも合わない。「狂ったように混ぜ回す」でおかしくはないのだが「まぜくれまわす」は「強引(乱雑)に混ぜ合わせる」といったものであるからしてニュアンスが違うように感じられる。
「くれまわす」というのでひとつの言葉という事も考えられるが「無理やり」を「無理くり」と言ったりもするので「くり」という言葉として考えてもいいような気がする。
なので勝手な憶測だけど「くり」で考えてみることにする。で、「くり」とはおそらく「呉る」(くる)での「呉り」だろうなと思う。古語辞典によると
「くる」(呉る){他動詞ラ行下二段活用}与える。やる。くれる。つかはす。
{補助動詞ラ行下二段活用}①動詞の連用形についてその動作をしてやる意を表す。・・・してやる。②その動作をしてもらう意を表す。・・・してもらう。
とある。
実際使ってる印象からは横柄・乱暴・ぞんざいといった印象になるのであって古語辞典の説明にある意味とは必ずしも一致しないのであるが、強引につなげればそのものに対して偉そうな態度(上から目線)をとっているから~してやるといった横柄・ぞんざいになると解釈できなくもない。まああくまで勝手な想像ですが。
他に考えられるものとして「刳る」と「繰る」と「来る」。
「来る」は流石に遠そうだ。繋げるのには無理がある。
「刳る」は辞書には器具を回すように使って、何かにくぼみや穴を作る。えぐる。とある。「えぐる」というのにこじつけ性を見い出せそうで容赦ないという印象と重ね合わせれなくもないが、まあ無理だろうな。
「繰る」については最初これだろうと見当をつけてみたのだが辞書を引いて
①綿繰り車に掛けて綿の種を取る。②(長いものを)順に引き出す(して巻き取る)。③順に送って動かす。④順に数える。とあって、意味に繋がりがなくてこれじゃないなと思い直すことになった。
「繰り出す」って言葉から次々という活発な様といった意味が「繰り」にはあるんじゃないかと思っててこれかと見当つけてたんだけどそうではなかった。「繰り」にはなくて「繰り出す」でしかこういった意味にならないのだとしたら「走繰り出し回る」とか「まぜくりだしまわる」とかでないとおかしいものな。でもそういう言い方は無い。「やりくり」に関しては「遣り繰り」であるのでここでの「くり」とは別種となるのであろう。
とりあえずなんとなく思える事は、「くり」を入れる言い方そのものは共通語にもあろうがその頻度の多さということになると遠州弁の特徴と成り得るのかもしれない。
それと、明確に「くり」とはなんぞやという説明書きは見つけられなかった。
実際使われてる例を挙げると(多分ほとんど共通語であろうが)
「ほじりだす」→「ほじくりだす」
「連れ回す」→「つれくれまわす」・「つれくりまわす」
「弄り回す」→「いぜくりまわす」・「えぜくれまわす」
「舐め回す」→「なめくれまわす」
「捏ね回す」→「こねくりまわす」
「触れ回る」→「ふれくれまわる」
「やり倒す」→「やりくりたおす」
言ってもおかしくはないのだが言わないのは
「掻き回す」→「かきくりまわす」
「撫で回す」→「なでくりまわす。」言うのは「なぜくりまわす」
「振り回す」→「ふりくりまわす」
ところでこうやって挙げていくと必ずしもではないが前が「い」の音だと「くり」、「え」の音だと「くれ」となる傾向が覗える。
「まわす」を外して言うとそのニュアンスは、例えば「つれくる」・「いじくる」・「なめくる」という言い方になるのだが
これらは存在する表現であり、ニュアンスについては強引さは同じであるが「まわす」を外した分激しさは薄いものとなる。
ということで、なんとなく思えるのは遠州弁に於いて「くり」はひとつにまとめられるものではなく
「はしくりまわる」の「くり」は「走り狂いまわる」という「狂う」の変じたもの。
「つれくれまわす」の「くり」は「連れ呉れまわす」という上から目線の意を持つ「呉る」。
「やりくり」の「くり」は「繰り」。
この三種類が存在していんだろうなと想像される。