遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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例えば「今から病院行くんだら?」と言う文章。
訳さば「今から病院に行くのだろ?」とておかしくはないのだが、なんかざらつきを感じざるを得ない。違ってはいないのであるが普通は次のようになるであろう。
「今から病院行くだら?」
つまりつらつら思うに「だら」の前で文章が完結していなければ違和感を感じるものである。
「行かない」ということで「今から病院行かんだら?」ということであれば違和感はない。
例を変えて「もちろんやらんだら」。「もちろんやらない」+「だろ」といった念を押すみたいな付け加えの様相を呈していないとなんか違和感を感じるものである。
これを共通語に直す際にとにかく一文にまとめようとすると「もちろんやらないのだろ?」と格助詞の「の」をはめてしまうことになる。
したがって共通語を遠州弁に変えようとすると「行くんだら」みたいな余分なものが付いてしまうことになりざらつきを覚えるのであろう。こうしたざらつきを解消するには先のように「行くだら?」とするか、もしくは「病院に行くんだら?」と共通語に近い言い回しにするか。
ところがこれが「あいつのこんだで行くんだら」ということになれば
これを訳さば「あいつのことだから行くんだろ」ということでなんのざらつきもない。
それは何故かというとこの場合共通語に訳すと「行くんだら」は「行くのであろう」ということになるのだが、遠州弁的には「あいつのことだから行くんだ」+「ろ」という事になるという正しいかどうかは根拠がないがそういう解釈が成り立つからである。つまりこの場合は「だら」ではなく「ら」であるからとすれば違和感がないのである。「ろ」ではなく「ろう」としたいのなら「ら」を「らあ」とすれば「行くんだろう」ということになる。
最初の例文に戻って「今から病院行くんだだら?」という事になれば歪ではあるが違和感はない。
「今から病院に行くんだ」+「だろ?」
という形になっているからである。歪さを解消するには「今から病院行くだあだら?」とかになろうか。
こういった風にややこしいことは確かである。
さらに輪を掛けてややこしくすると、ところがこれが旧遠州弁である「づら」とするとあら不思議、「今から病院行くんづら?」・「今から病院行くづら?」・「もちろんやらんづら」・「あいつのこんだで行くんづら」とどれにも違和感なく当てはめることが出来る。唯一「今から病院行くんだづら」だけはおかしくなる。
単に言い方が「づら」から「だら」に変化したということではなく、助詞の使い方とかまでもが変化していると勘繰られる程である。一体何が起こってこうなったのかが分からずまったく不思議としか言いようがない。取り様によっては片言言葉化してると云えるのかもしれないが。
例えば「やりいい」という場合の「いい」。
「いい」は「易い」と言っている。
「これがんやりいいで使ってみい。」(これとてもやりやすいから使ってみなよ。)
「良い・好い」ともとれなくもないが「~し易い」と言っている。
「良い・好い」という場合には「やりよい」と発する。
つまり遠州弁においては「よい」と「いい」は使い分けられているのである。どちらもイントネーションは共通語とは異なる。「いい」の最初の「い」、「よい」の「よ」を強く発する。
どちらも訳す際は「易い」とすることが多く一見違いはないように思われるところであるが、ニュアンスとしては異なるものである。
意味的にどういう違いかというと
「持ち易い」なら「もちいい」
「持つのに良い」なら「もちよい」
「やすい」(易い)は誰にでも容易で簡単
「よい」優れている好ましい
などという違い。
つまり誰が持ってもという勢いと自分が持ってという勢いの違いである。
強引にいえば「やりいい」は誰にでも簡単、「やりよい」は自分にとっては得手であるといった感じである。
最初の例文でいうと「これがんこやりいいで使ってみい。」を「よい」に変えて「これがんこやりよいで使ってみい」とすると自分が使ってよかったからあなたも使いなさいよといった軽い命令口調(お仕着せ口調)になる。
柔らかくするには「これがんこやりよいであんたも使ってみい」とすれば自分は良かったからあなたもどう?という勢いが増す言い回しとなって角がたたずに済む。
で、「易い」を全て「いい」と置き換えて言うかというと(言って言えないことはないのだろうが)そんなことは無い。「よい」は殆どの言葉で使える。
例えば「話し易い」は「はなししいい」とは普通言わない。「はなししよい」と言うのは有る。
他には「言いよい」とは言うが「言いいい」とは言わない。「買いよい」はあるが「買いいい」はない。こういう場合は「易い」を使う。といったような「いい」と「易い」は前の言葉によって使い分けがなされている。ざっと挙げると
「いい」を使っても違和感のないのは
「当てやすい」→「当ていい」・「やり易い」→「やりいい」・「持ちやすい」→「持ちいい」・「打ちやすい」→「打ちいい」・「着やすい」→「着いい」・脱ぎやすい」→「脱ぎいい」・「使いやすい」→「使いいい」・「売りやすい」→「売りいい」・「出しやすい」→「出しいい」・「寝やすい」→「寝いい」・「起きやすい」→「起きいい」・「蹴りやすい」→「蹴りいい」・「弾きやすい」→「弾きいい」・「取りやすい」→「取りいい」「撒きやすい」→「撒きいい」・・などなどきりがない。
「易い」としか普通言わないのは
「言いやすい」・「買いやすい」・「話しやすい」・「放しやすい」・「犯しやすい」・「捕まりやすい」・「転びやすい」などなど。(他にもあろうが。)
これがどういう法則で「いい」にならないのかはいまいち掴めていない。今後の宿題である。
例文
「やあなんだあここんさあの荷物おもいきっさけっからかいちゃってえ。どいてえやあ。」
(おいなんだよもう、ここにある荷物思いっきり蹴っ飛ばしちゃったじゃないかよ。すごく痛いぞ。)
「ちょう、頼むにい、壊さんでよ大事なもんだで。」
(ちょっとぉ、お願いだから大事な物なんだから壊さないでよ。)
「んなもん なんでこんな蹴りいいとこなんか置くだあ。」
(そんなものどうしてこんな蹴り易いような処になんか置くんだよ。)
「とりあえず置いただよ。丁度に置きよいとこないもんでえ。」
(好い置き場所決まるまでとりあえずそこに置いといたの。)
「賑やか」・「華やか」・「爽やか」・「健やか」・「冷やか」・「穏やか」などの形容動詞に
「い」を付す言い方は方言なのか?というお話し。
共通語なら「な」が付く、賑やかな・穏やかななどということになるであろう。
それが、賑やかい・華やかいといった言い方をするのは方言なのだろうか。ネットで検索すると案外広い地域で使われる言い回しという印象を受けた。特に遠州弁ということではないらしい。
でもまあ遠州弁での使い方について述べてみる。もしかしたら独特なのかもしれないので。
理屈は「い」を付すことによって形容動詞を形容詞に変化させる効能となるそうな。
それって単に「な」が「い」に変化した(訛った)って事を言ってるということか。
しかし最初に挙げた言葉が全てこう変化するのかというと「爽やかい」・「健やかい」などとは言わない。つまり変化する語としない語がある。変わるものと変わらないものの違いは何かの説明がないとよく分からんぞということになる。
実際の変わる言葉を考えてみると
もし共通語の「美しい」の理屈が「美し」(もしくは愛し)+「い」で「うつくしい」であればこの「い」の理屈の中の表現類に含まれるのであるが「うつくし」も「うつくしい」も形容詞と分類されてるからとんでもないこじつけになるか。
でも「やわらか」+「い」という形容詞化というのは共通語にあるよな。そう考えると全く方言独自の変化ではなく単に形容詞化する種類が共通語よりも多いというだけの事になる。
遠州弁っぽいのだと名詞だの形容動詞だのごちゃごちゃいわんと挙げ連ねば
「じょうぶい」(丈夫い)・「じょうずい」(上手い)・「にぎやかい」(賑やかい)・「ひややかい」(冷やかい)・「おだやかい」(穏やかい)・「ぶしょい」(不精い)。「けっこう」+「い」で「けっこい」がこれに含まれるかは微妙。微妙といえば「冷やかい」(ひやかい)は普通は「ひゃっこい」だから存在はビミョ~。
などがとりあえず思いつく。もちろんこれで全部という事では無い。
逆に変わらない言葉を考えてみると
「すこやかい」(健やかい)・「はなやかい」(華やかい)
ん~並べてみても変化するものの傾向は読めないな。
視点を変えて、ニュアンス的にいうと例えば「賑やかな」と「賑やかい」では受ける印象が違うと感じる事がある。
遠州弁における「賑やかな場所」と「賑やかい場所」だと「賑やかな」は「活気のある」といった勢いで「賑やかい」だと「騒々しい」という勢いの違いを感じたりもするところである。「い」ではなく「し」で「賑やかし」だと「盛り上げ要員」みたいな勢いが影響しているせいかもしれないところでもあるが。
次に遠州弁で「割と丈夫いじゃん」・「けっこう丈夫いにい」という表現。
この場合共通語に直すのに「い」を「な」にすればいいというものではない。「割と丈夫なじゃない」・「結構丈夫なだよ」とはいかないという事である。文章のまとまりとしては「な」は余分となる。もしくは丈夫な○○とか丈夫という対象物をいれなければならない。
はしょる表現として用いられてるとかいうこともあるのかな。
と、まあ色々考えてみたけれど、詰まる所は無秩序を整理するのは無理なようだ。それでもなんとなく言えることは
別に方言じゃないのではないか。単に頻度が抜きんでてるだけだろう。
言うものは言うし言わないものは言わない。法則・傾向は不明。
言葉ごとに「い」を付ける(形容詞に変化させることによる)用途・効能が違っているような気がする。
「もんりい」とは「おもり番」ということ。
「今日はもんりいしにゃかんで遊びいけれん。」(今日はお守りをしなくちゃいけないので遊びに行けない。)
こういう「○ん○い」という言い方は遠州弁ではよくする。
「まり」(毬)であれば「まんりい」
「うみ」(膿み)なら「うんみい」
「あに」(兄)を「あんにい」
「ぼろい」を「ぼんろい」
「もろい」(脆い)を「もんろい」
野郎表現であり女性が発することはばか恥ずかしい(非常にはしたない)ということになる。
形としては「ん」(撥音)もしくは「っ」(促音)を足して語尾は前の音を繰り返す(もしくは伸ばす)というものであり、意図としては強調という事と本来二音で成る言葉の音数を増やして語呂(言い易さ)をよくしようというものであろう。
「豚」を「ぶったあ」
「姉」を「あんねえ」
「息子・娘」を「むっすう」
「へた」(下手)を「へったあ」
この条件であれば
「ボロ」を「ぼんろう」
「カス」を「かっすう」
といったいささか強引と思える物に対して使っても違和感は湧かない。ただし嗤われることは有り得るが。
ちなみにここから先は卑猥に属すので18禁な内容だが
「つんびい」という言葉。(人前では決して発してならない淫語)
これを上記の理屈によって元の言葉に戻すと「つび」となる。で、「つび」とはなんぞやという事でネット辞書を調べると(辞書及び古語辞典には記載無し)
「つび」(玉門)陰門の古名。
「陰門」女性生殖器の外陰部。玉門。
とある。「つんびい」の使われてる意味と合致するものである。
つまり古語が遠州では形は弄ってあるが現在も生き残っているという事が分かる。
ちなみに現在は「つんびいしてえ」で「エッチしたい」といった行為を指す意味に使われる傾向が顕著である。が、正しくは体の部分を指す言葉であるのだがそれが大分応用が進んできている状況である。良いか悪いかは知らないが。
尚、「小娘」のことを「ちゃんびい」と言うのだが、これもこの屁理屈で戻すと「ちゃび」となるのだが「ちゃび」って言葉は何処を探しても見つからない。
同様に「自転車」を「けったあ」と言うのであるが「けた」が「自転車」であるということはない。
こうしたことからなんでもかんでも「○ん○い」という屁理屈が成り立つというものでもない。つまりややこしいぞと。
買い物の光景を眺めてるとこういう傾向があろうかと。当然だが遠州弁においてこのような法則がある訳ではないので決して以下のようなルールに則って言うのだと決まっている訳ではない。
価格を尋ねる時
「いくらんなる?」と尋ねればほぼ買う気でいる。
頭高で「い」を強く言う「いくら?」となれば買う気大だが高かったら買わないぞという勢い。
食品のイクラと同じ「ら」を強く言う「いくら?」となれば買う気は半々で安かったら買ってもいいという勢い。
平坦で言う「いくら」という言い方も存在する。使いどころは聞き直す・聞き返すときに使われる事が多い。「はあ?いくらだって?」。
同じ「いくら?」でもこういう使い分けがあるので頭に「お」を付けると頭高の「いくら?」は言いづらい事この上ないので「おいくら?」という言い方はあまり使わない傾向にあろうかと。無論おしゃまこいて共通語しゃべくってるつもりなら「おいくらですか」と言ったりする人も後を絶たない。
買う気なしのひやかしのような場合もしくは買い物に付き合ってる側の人間が発する時には「いくらよ」ということが多い。買わされる(金だけ払う)人が渋々財布を出す際に発することも多い。
話し変わって値切るにあたって知り合いの店とかでないと「まけて」という言い方はあまりせず
「安くしてやあ」・「安くならん?」・「安くならんかねえ」といった「安く」を使う事が多い。
「勉強して」という言い方もほとんど聞かない。