遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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遠州弁関連
「かたっぽ」
遠州でも普通に使われるということで。
地方の方言を紹介する様々なサイトを巡ると「かたっぽ」が方言枠として扱われている。
遠州弁でもごく普通に使うものであり、こりゃ方言の範疇じゃなくて全国的に使われてる俗語の領域じゃないのか?と思えるが、まあとりあえず遠州でも使うよということで記載。
「かたっぽ」は「片方」で「かたっぽう」は「片一方」の変であろうか。
「かたっぽ」だと「片方」(かたほう)で対(分割した方)のうちのどっちかひとつといった具体的に示せる物・者を指す事が多い使われ方。
「かたっぽう」だと「片方」という意味使いもするが、「一方」と同じかのようないずれかの陣営といった枠組み・塊といった具体的な物を指し示せないものを指す使い方もする。
まあ、片方と片一方は同じ(辞書には「かたほう」の口語的表現が「かたいっぽう」とある)であって「かたっぽ」と「かたっぽう」が違う訳がないというつっこみがあったら言い返せないという上記の違いであるが。
「かたっぽ」の反対語は「全部」・「まるさら」(まるごと)・「両方」・「どっちも」
「かたっぽう」の反対語は「双方」ってか。
とかが思い浮かぶ。
例文
「おいこれ運ぶでかたっぽ持ってくれやあ。」
「重いの嫌だにい。腰おやいてるだで。」
「使えん奴だなあ。」
「誰か呼んでくるけえ?」
「ええわ。ひとりでなんとかするでえ。」
遠州弁関連
「ぶる」
「ちんぷりかえる」を「ちんぶりかえる」と発する地域がある。
私らんとこは「ちんぷり」であるが。
で、もし「ちんぶり」が正しい言い回しであるとしたならば
「おひんぶる」と同系統に属すことになるのかなとふと思えた。
「おひんぶる」も、しまくれば「おひんぶりかえる」という言い方になろう。
この「ぶる」は「振る」と書けようか。「振る舞い」の「振る」かと。
「おひんぶる」=「上品振る」
ということで、ならば「ちんぶる」は「ちん振る」と書けそうだ。(ただし「ちんぶる」という言い方は日常に於いては存在していないが)
そうなると「ちん」ってなんだということになる。
「ん」は何かの撥音便化したものと妄想できるやもだが、如何せん思い浮かばない。
「ちんぶる」の意味は「拗ねる」(すねる)というもので「ちん」な「振る舞い」で「ちんぶる」ということになろうか。
「ちん」は何かと突き詰めれらればすっきりするところだが無念ながら知恵が無い。
いずれにせよ「ちんぷり」ではなく「ちんぶり」であるほうが屁理屈がこねれそうである。
しかしてくどいようだが私らんとこでは「ちんぷり」であって「ちんぶり」では無い。
遠州弁関連
イントネーションを伝えるのは難しい。
例えば「おいてくにい」
①語尾に行くほど強めに言えば→「おいていくからね、分かった?」
②凡て平坦で言えば→「おいていくので」
③「おい」+「てく」+「にい」でそれぞれ(お・て・に)を頭高で言えば→「おいていくよう」
此処に物を置きますよという「おい、ここおいてくにい」の場合
これは普通は②で訳は「ねえ、ここに置いていくんで(よろしくね)」とかいう風になる。
特に注意喚起という場合には③で「ちょおとを、ここに置いたから(忘れないでよ)」とかいう風になる。
①で発すると「ここに置いたからね。後は知らないよ。」みたいな感じになる。
次に、聞き分けのない子供に向かって「はあ、おいてくにい」の場合
苛立ってる状態なら①でほぼ脅し。訳さば「もう知らん。」(見放した)
②としたら冷静(冷酷)な印象を与える。冷たすぎて却って怖い。
③は注意喚起。訳さば「いい加減にしなさい。」
これが「にい」ではなく「に」だったらまた違ったニュアンスになるものであり説明比較するにはペーシが幾つあっても足らないので、まあぼちぼちオイオイと。
とまあこんな感じなのでおそらくは文字からだけだと色んな例文私の意図と違う解釈で文章を捉える方が必ずおられるであろうな。でも誤解を生まない解決策は浮かばない。
遠州弁関連
俗語と方言は紙一重
方言というのはある地域だけで使われる言い回しといったものであろうか。
俗語(俗表現)というのは辞書には載らない言葉という解釈も出来ようか。
辞書にはないということであれば方言も当然その部類に入るわけで
地元民でなければ(他所のひとにしてみれば)方言か俗語か区分する必要はないのかもしれない。
地元民であっても発してるそれが方言なのか俗語なのか分からないものもたくさんあろう。
そう思えるので、このブログでも俗語なのか方言なのかどっちなのか明確に区分しないで遠州(主に浜松)で日常発せられている表現を載せている。まあよく分からないのでという理由が大きいからでもあるが。
俗語は流行語程ではないにせよ一過性が強いもので暫くすれば誰も言わなくなるもので、方言はそれなりの年月の蓄積があるという違いがあるのかもしれないが。
実体験として明治・大正生まれの人は「づら・つら」の使い手で昭和以降は「じゃん・だら」の使い手が主流を占めるようになってるという変遷を体験してる身なので、方言と呼ばれていても案外一過性を感じたりもするところである。
それでも遠州弁の中には辞書には載ってないが古語辞典には載ってるような言い回しとかもけっこう普通に今してるというのがあるわけで、多少は古い言葉を長持ちさせてる方言と思えなくもない。
ということで新旧ごちゃまぜなところが遠州弁のいいとこであろうと納得するしかないのだが、私の遠州弁は昭和でほぼ止まっており決して最新のものではないという自覚があるくらい言葉は流れているのを実感するものである。
「めちゃ」も「めっさ」も私は使わない。「がんこ」か「えらい」で十分である。
最新を追ったら我を見失ってしまうだろうからクラシックと呼ばれようが自分の感じたままに遠州弁を探していってる次第。
で、タイトルのお題に戻るが、方言と俗語の境目なんて区別してないというかしようがない。というのが私の結論。