遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
昔は、三河は参河の国・遠州は遠江(とおとうみ)の国・静岡は駿河の国だった。地続きの国同士だから当然言葉の行き来も盛んだったのである程度似通った言語を話す。だが違うだよ。
浜松の人が静岡に会議にいって、終了後懇談会(要は飲み会)があるので出ませんかと誘われた際、「いやあうちの舎っ弟んとこ寄らんとかんもんで遠慮するわ。」と言ったらその筋の人かと勘違いされて思いっきり引かれたと言う逸話を聞いたことがある。ちなみにその発言を翻訳すると「う~ん。弟の所に寄る事になってるものだから遠慮させてもらいますわ。」ということになる。
以前にも書いたが、県民性はおだやかというのは駿河の人に当てはまる言葉であって、伊豆とか東部の衆らとは付き合いんないもんでよー知らんだけど、遠州の衆にははまらん言葉だでねー。
もっとも焼津とかは独特らしく、その言葉使いは漁師言葉が多い影響で荒々しく駿河っぽくないらしいが。
駿河の言葉で遠州では意味が通じないのは結構あり、ネット等で調べると例えばを「静岡弁」(遠州弁){共通語}と表記。
「みるい」(やわい){やわらかい}
「ぶそくりかある」(ちんぷりかある){むくれる}
「かんだりい」(かいだるい){気だるい}
「しゃばく」(やんぶく){破く}
「おんまける」(ぶんまく・ぶんまかす){ぶちまける}
「さぼる」(ほかる){投げる}
挙げたらきりがない。
有名な聞いた事ないような言葉ならまあ聞けば分かるのだが
「かじくる」は遠州では「かじる・引っ掻く」という意味だが駿河では「掘る」だそうな。
「せせくる」は遠州では「触る・触れる」駿河では「ちょっかいを出す」。
などのように意味がまったく違う言葉があるのがやっかいではある。
「ちゃっきり節」で有名な「ちゃっきり」って遠州人からすれば何?どういう意味?とかいうこともある。
遠州は名古屋に近い。大昔は東とは暴れ天竜・越すに越されぬ大井川といった大きな河で仕切られ西とは湖西連峰と浜名湖で区切られ北は南アルプスの峰々と、ある意味立地的に人の行き来が東海道の街道沿い以外では盛んでないことから独自の方言や古い言葉が絶えることなく使われていた。
しかし現在は交通が発達して人の往来がより盛んになり各地から仕事などで人が来るようになった。とくに名古屋とは「東海」という枠の中に含まれることが多く名古屋人との接触がより多くなってきている。したがって大分混血というか名古屋からの外来方言が入ってきている。
「~だがね」とかが有名なとこであろうか。「~だがや」となると流石にモロ名古屋になるが。ちなみに遠州弁っぽい表現は「~だあね」であろうか。
他にも「いいから」を「え~で」「いいから来なよ」が「え~できない」とか。
などなどいくらでもホイホイ出てくる訳であるが知らぬ間にという言葉も結構同化しているんだろうなと思える。
しかしながら定着しない言葉も当然ある訳で、以前書いた「たあけ」などがそうである。
「おきゃあせん」関東では「置きやがれ」ということになるのであろうか。やめなさいとかいい加減にしろよとかいう意味であろうか。遠州ではどちらも使われていない表現である。強いて近い表現を探すと「馬鹿こいちゃかん」であろうか。
不思議なのは関東と名古屋の間で近い言葉があるがその狭間に位置する遠州では使われていない飛び地ということである。
例えば他には「おそがい」。これは名古屋の言葉であるが駿河でも方言として使われているらしいが遠州ではほとんど使わない外来種扱い(うちの集落だけかもしれないが)。
そんなこんなでハーフが増えてどれが純血種の遠州弁なのかは確信が持てない。持てないけれどとんじゃかなく遠州で今使われてる共通語ではない表現をこれからも気づいた限り記事として載せていきたいであります。
遠州弁において「馬鹿」と「ど」は日常茶飯事に非常に多く使われる表現であるが、この意味するものは「凄い」とか「とても」とか「非常に」とか多種の意味がある。もちろん共通語の「バカ」という意味もあるがこの記事ではそれを省く。
つまり大抵の言葉に「馬鹿」と「ど」がつくのだと言っても過言ではない。
しかしながら全てにつくわけではない。というか使いどころに一応の決まりというか収まり場所が存在する。
例えば「仕事の出来る物凄い課長」というのを「物凄い」=「馬鹿&ど」だからといって「仕事んでける馬鹿課長」とは言わない。こうなると「仕事はできるけど馬鹿な課長」ということになる。こういった場合は「馬鹿仕事んでける課長」と普通は言うことになる。
これで「仕事の出来る物凄いやり手」となると「仕事んでける馬鹿やり手」と言い方は存在する。
そして上記の例は凡て「馬鹿」が使われるのであって「ど仕事できる」とか「どやり手」とかいう使い方はない。
「馬鹿」と「ど」以外にも凄いという意味使いでは「がんこ」という言い方もある。が、「馬鹿がんこ」と「どがんこ」という表現があるので全く同じ使い方ということではない。
ちなみに「ど馬鹿」・「馬鹿ど」という表現はあるかというと、ヒドイを例にすると「ど馬鹿ひどい」はないが「馬鹿どひどい」という表現はある。では三つを組み合わせて「馬鹿どがんこひどい」という最強的表現はあるかというと、ありえそうだがやっぱりある。
例 単語を変換
「だだっぴろい」→「馬鹿広い」・「ど広い」
「冷酷だ・つれない」→「馬鹿冷たい」・「ど冷たい」
「大嘘つき」→「馬鹿嘘こき」・「ど嘘こき」
「くそ真面目」→「ど真面目」この場合「馬鹿真面目」は大層真面目といった褒め言葉になることが多いのでニュアンスがくそ真面目とはならない。
「見れえへん」は何らかの障害があって見ることが出来ないといった理由の存在を強く言いたい時。
「見れやへん」は理由はともかく見れないということを強く言いたい時。
テレビ番組が見れない時。
田舎では放映されなくて見れない時は「映らんくて見れえへん」と言えば映らないということに重きが行くことに聞こえる。
「映らんくて見れやへん」と言うと見れないことが焦点に聞こえる。
どちらが残念に思っているかというと「見れやへん」の方が残念そうで「見れえへん」だと無念そうに感じる。
会話で「見れえへん」単体は成立しづらく「何が?」とか「何で?」とか聞かれ易く、「見れやへん」だと「まあまあ」とか「あっそう」みたいな単体で成立する表現ということもありうる。
「へん」の代わりに「せん」や「しん」という言い方もあるが「見れえしん」という表現はない。例文ではより遠州弁チックにするため「見れえへん」を「めえれん」に「見れやへん」を「めえやせん」と表現している。
例文
「○○のコンサートめえ行っただって?」
(○○のコンサート観に行ったんだって?)
「行ったにゃ行っただけえが総立ちっつう奴?あれされて全然めえやせんくてなんしょ音だけ聴きいったようなもんだった。」
(行ったには行ったんだけど総立ちって言うの?あれをされて全然見えなくて、もう音だけ聴きに行ったようなものだったよ。)
「そんなもんだらあ。今時めえれんのが当たり前じゃないの?よを知らんけど。」
(そんなもんじゃないの?今時見れないのが当たり前じゃないの?よくは知らないけどね。)
「みばよくしとかんとみこもよくならんだで」
(見映えを好く見せておかないと印象も好くならないんだから)
「みてくればっかよくしたって中スカスカじゃあしょんないじゃん。」
(外見(そとみ)だけよくしても中身が伴わなきゃ意味無いじゃん。)
「だからっつってなんもせんでいいっつうこたあないらあ。なんかしんと。」
(だからって何もしないでいい訳ないでしょう。何かしないと。)
「自分磨きで忙しいの。」
「だでその前に靴磨けっつうの。」
という風に、「みば」は見映えのことでおそらく短縮形と想像される。
「みこ」は覚え目出度きというか好印象とか贔屓されるといった意味で、漢字がなにかは不明である。意味から想像するに「御心」・「見込み」などが考えられるが根拠はない。ただし「見込み」についてはあるなしという使い方をするが、「みこ」についてはあるなし足りる足りないという使い方ではなく、良い悪いで表現される。まあまあとか普通とかいう中間的な「みこ」はない。
「みてくれ」(風体・見た目)は上っ面という感じもしてきてどちらかというと上辺だけで中身は・・・というイメージに取られるので褒め言葉ではないような気がする。
「いいだよ。外にゃ出んだで。」
「そんなんじゃ駄目だって。体おやすにいそんなじゃ。」
靴に限らず装いというのは案外大事なものであることに最近気づいた。何かのイベントにせよなんにせよ華やかなところに行かなければ享受出来ないようなところへ行きたいと思っても恥ずかしくない格好が出来ない(持っていない)と行くのに躊躇してしまう。ということが最近多くなってきたことに気づいたからである。過剰な装いへの執着はいいことだとは思わないけれどどこにでも行くことが出来る衣服は持っているべきだと。そういう意味ではどこでもドアならぬどこでも服ってのがあったら欲しいのえ。