遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
遠州弁において「馬鹿」と「ど」は日常茶飯事に非常に多く使われる表現であるが、この意味するものは「凄い」とか「とても」とか「非常に」とか多種の意味がある。もちろん共通語の「バカ」という意味もあるがこの記事ではそれを省く。
つまり大抵の言葉に「馬鹿」と「ど」がつくのだと言っても過言ではない。
しかしながら全てにつくわけではない。というか使いどころに一応の決まりというか収まり場所が存在する。
例えば「仕事の出来る物凄い課長」というのを「物凄い」=「馬鹿&ど」だからといって「仕事んでける馬鹿課長」とは言わない。こうなると「仕事はできるけど馬鹿な課長」ということになる。こういった場合は「馬鹿仕事んでける課長」と普通は言うことになる。
これで「仕事の出来る物凄いやり手」となると「仕事んでける馬鹿やり手」と言い方は存在する。
そして上記の例は凡て「馬鹿」が使われるのであって「ど仕事できる」とか「どやり手」とかいう使い方はない。
「馬鹿」と「ど」以外にも凄いという意味使いでは「がんこ」という言い方もある。が、「馬鹿がんこ」と「どがんこ」という表現があるので全く同じ使い方ということではない。
ちなみに「ど馬鹿」・「馬鹿ど」という表現はあるかというと、ヒドイを例にすると「ど馬鹿ひどい」はないが「馬鹿どひどい」という表現はある。では三つを組み合わせて「馬鹿どがんこひどい」という最強的表現はあるかというと、ありえそうだがやっぱりある。
例 単語を変換
「だだっぴろい」→「馬鹿広い」・「ど広い」
「冷酷だ・つれない」→「馬鹿冷たい」・「ど冷たい」
「大嘘つき」→「馬鹿嘘こき」・「ど嘘こき」
「くそ真面目」→「ど真面目」この場合「馬鹿真面目」は大層真面目といった褒め言葉になることが多いのでニュアンスがくそ真面目とはならない。
「見れえへん」は何らかの障害があって見ることが出来ないといった理由の存在を強く言いたい時。
「見れやへん」は理由はともかく見れないということを強く言いたい時。
テレビ番組が見れない時。
田舎では放映されなくて見れない時は「映らんくて見れえへん」と言えば映らないということに重きが行くことに聞こえる。
「映らんくて見れやへん」と言うと見れないことが焦点に聞こえる。
どちらが残念に思っているかというと「見れやへん」の方が残念そうで「見れえへん」だと無念そうに感じる。
会話で「見れえへん」単体は成立しづらく「何が?」とか「何で?」とか聞かれ易く、「見れやへん」だと「まあまあ」とか「あっそう」みたいな単体で成立する表現ということもありうる。
「へん」の代わりに「せん」や「しん」という言い方もあるが「見れえしん」という表現はない。例文ではより遠州弁チックにするため「見れえへん」を「めえれん」に「見れやへん」を「めえやせん」と表現している。
例文
「○○のコンサートめえ行っただって?」
(○○のコンサート観に行ったんだって?)
「行ったにゃ行っただけえが総立ちっつう奴?あれされて全然めえやせんくてなんしょ音だけ聴きいったようなもんだった。」
(行ったには行ったんだけど総立ちって言うの?あれをされて全然見えなくて、もう音だけ聴きに行ったようなものだったよ。)
「そんなもんだらあ。今時めえれんのが当たり前じゃないの?よを知らんけど。」
(そんなもんじゃないの?今時見れないのが当たり前じゃないの?よくは知らないけどね。)
「みばよくしとかんとみこもよくならんだで」
(見映えを好く見せておかないと印象も好くならないんだから)
「みてくればっかよくしたって中スカスカじゃあしょんないじゃん。」
(外見(そとみ)だけよくしても中身が伴わなきゃ意味無いじゃん。)
「だからっつってなんもせんでいいっつうこたあないらあ。なんかしんと。」
(だからって何もしないでいい訳ないでしょう。何かしないと。)
「自分磨きで忙しいの。」
「だでその前に靴磨けっつうの。」
という風に、「みば」は見映えのことでおそらく短縮形と想像される。
「みこ」は覚え目出度きというか好印象とか贔屓されるといった意味で、漢字がなにかは不明である。意味から想像するに「御心」・「見込み」などが考えられるが根拠はない。ただし「見込み」についてはあるなしという使い方をするが、「みこ」についてはあるなし足りる足りないという使い方ではなく、良い悪いで表現される。まあまあとか普通とかいう中間的な「みこ」はない。
「みてくれ」(風体・見た目)は上っ面という感じもしてきてどちらかというと上辺だけで中身は・・・というイメージに取られるので褒め言葉ではないような気がする。
「いいだよ。外にゃ出んだで。」
「そんなんじゃ駄目だって。体おやすにいそんなじゃ。」
靴に限らず装いというのは案外大事なものであることに最近気づいた。何かのイベントにせよなんにせよ華やかなところに行かなければ享受出来ないようなところへ行きたいと思っても恥ずかしくない格好が出来ない(持っていない)と行くのに躊躇してしまう。ということが最近多くなってきたことに気づいたからである。過剰な装いへの執着はいいことだとは思わないけれどどこにでも行くことが出来る衣服は持っているべきだと。そういう意味ではどこでもドアならぬどこでも服ってのがあったら欲しいのえ。
より遠州弁っぽくするには「めえれる」・「めえれえせん」とすればだあだあ感が増す。
大雑把に訳すと「見る事が出来る」と「見る事が出来やしない」という意味になる。
「見えなくて」は「見えんくて」・「めえせんくて」・「めえやへんくて」
「見えん」は「みえん」・「めえん」
とかが使われることが多い。
例文
「どうでえ。めえるけえ。」
(どう?見える?)
「今人居んでチャンスとかゆうとったけど全然だわあ。めえやせん。」
(今混んでいないからチャンスだよとか言われたけど全然見えないよ。)
「なんでめえれせんよを。人いんじゃんゆったとおりにい。」
(どうして見えないの。人は言ってた通りいないじゃないか。)
「人いんくたって肝心の動物小屋ん中入っちゃっててめえれやせん。」
(人がいなくたって肝心の動物が小屋の中に入ってちゃ見れないよ。)
「餌くれりゃ寄ってくるらあ。」
(餌あげれば世ってくるんじゃないの?)
「餌やっちゃかんって書いてあるにい。」
(餌はあげないで下さいってかいてあるよ。)
「じゃどうするよを。」
(それじゃあどうすんのさ。)
「しょんないじゃん。」
(どうしようもないだろ。)
「気持ち悪い」を略した言い方で方言でもなんでもないのであるが、遠州ではいい歳した大人でもうちうちでは使うくらい定着している感がある。これは多分に言い易いからであろう。
他の地域ではどうなのかは知らないが、遠州では「気色悪い」という意味合いで使われることが多く、吐き気を伴うような体調的な「気持ち悪い」とは異なる使い方をしている。
別の省略した表現で「きもい」・「きしょい」というものがあるがさすがにここまでくると人それぞれに言葉から受ける印象が異なるので定着しているという感じにはなっていない。
下記の例文での「きもるい」は「ぶしょったい」という言い方でも成立するがぶしょったいの上を行く様相という風に解釈していただければありがたし。
例文
ガキ「ちょっとでかけてくるでねえ。」
(ちょっといってくるからね。)
母「なにいその格好。どこいくにしたって馬鹿きもるいにい。やめない。」
(何?その格好は。どこにいくにしても凄く気色悪い。やめなよ。)
父「いいじゃん本人気にいってるだでやらしときゃあ。」
(いいじゃないか本人気に入ってるんだからやらせとけば。)
母「なにゆってるよを。この格好で外出るっつってるだにい。」
(なに言ってるの。このなりで外行こうとしてるんだよ。)
父「いいじゃん別に恥ずかしい思いするの本人だもん。懲りればはあしんくなるらあ。」
(いいじゃないの恥ずかしい思いするのは本人なんだから。これに懲りてもうしなくなるだろう。)
母「馬鹿こいちゃかん。あの家は親んなにしてるだあっつって馬鹿にされるだでねえ。身が細るわあ。」
(冗談言わないでよ。あの家の親はどうかしてるぞって思われて肩身が狭くなるんだから。)
父「いいじゃん痩せる思いできすならダイエットんなるらあ。」
(好都合だろ痩せる思いでるんならダイエットになるだろ。)
母「ぶっ殺す。」