遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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タイトル程大袈裟に違うわけではないという誇大表示ではあるが、それでもこの二つの言い方はそのニュアンスが異なる。
大抵は「らんごくない」も「らんごかない」も同じように「雑然としてる・散らかり放題」みたいな意味使いをしているが無茶苦茶という意味合いで使われることもありその意味使いでの場合「らんごくない」は「無茶苦茶なことする」と訳せ、「らんごかない」だと「無茶苦茶でどうしようもない」と訳すのが自然であろう。
つまりあくまで個人的な印象であるが
「らんごかない」だともうどうしようもないみたいな見捨てた印象を与える。やれやれという感じ。
「らんごくない」だと無茶苦茶だと驚いている印象を与える。おいおいという感じ。
「らんごかない」の「か」は「くは」の変形とも想像されるのだがそれにしてはそこはかとなくイメージが変わるものである。
ところで「らんごく」が「ない」という「らんごく」ってなんだろう。
「ない」というのが打消しならば「らんごく」は意味使いから想像すると理路整然という風になるのだがそんな言葉は国語辞典にも古語辞典にもない。「らんごい」・「らんご」とかで調べても出てこない。
ネットで調べると「乱雑」という言葉の変化とされているところが多いのだけど、それだと「らんごくない」→「乱雑ない」ってことになり意味が変ではなかろうかと思ったりもする。
駿河の方でも「らんごく」は使われるらしいが駿河の使い方例を挙げると
「部屋ん中らんごくで座る場所んない」(部屋が乱雑で座る場所が無い)
という使い方をするそうで「らんごくない」という一塊で使う遠州の使い方とは異なる。ちなみにこの例文を遠州弁にすると
「部屋ど散らかってて座るとこんなくてらんごかねえ」
みたいになる。遠州弁では「らんごく」で使うことはまずもって聞かない。
別のところで「乱飛乱外」(らっぴらんがい)という言葉があってそこの「乱外」(らんがい)から来ているのではないかというところもあった。また別のところでは「乱飛乱国」(らっぴらんごく)というのもあって「外」でも「国」でも意味は大体同じらしい。
「乱雑」・「乱国」どちらにせよ「らんごく」の元はそこはかとなくそこいらへんから来てるらしい気がしてきたけれど、なんで遠州弁では「ない」という打消しの言葉がつくんだろうという疑問の解決にまでは至っていない。
すんげえ強引に考えれば、「らんごくてほんとしょんない」が詰まって訛って「らんごかない」になったくらいしか思いつかない。
説明できる方がおられるならご教授願いたい謎な表現である。
「それはまあそうなんだけど」という言葉を遠州弁にすると
「そりゃまあそうだけえが」と「そりゃあまあそうだん」
次に「これをやるのか?」だと
「これやるだけえ」か「これやるだあ?」
という風になる。ニュアンス的にはほぼ大きな違いはなく使い分けとかもなくどちらの言い方を使うかはその人次第という感じであろうか。
出所は勿論確かではなく全て勝手な想像で根拠は無いが「けえが」は掛川方面っぽく、そちらの言葉のような気がしないでもない。「だん・だあ」は浜松の旧市内とかで使われていたのではと想像した場合天竜川を挿んでが境界線だったのだろうかという説が考え付くのだが、実は旧市内でも「け・けえ」は使っていたので非常に嘘臭いので分類は無理であろう。。
まあとにかく今はしのぎを削って勢力争いをしていなくもないかなと。勢力図でいったら今私の周りでは「けえ・けえが」派が攻勢中かな。
でも、「だら・だに・だで・だあ・だん・だだ・だの・だと・だて・だな・だね・だや・だよ・だわ」とかで統一性があって説明するに楽なので「だん・だあ」派が主流になって欲しい気はするだん。
例文
「明日仕事しい来た方がいいだあ?」
(明日出勤した方がいいのかな?)
「どうだいやあ。いちお~非番じゃなかったっけえ。」
(どうだろうね。一応非番じゃなかったっけ。)
「そりゃあまあそうだん。忙しいなら来るにい。」
(そりゃあまあそうなってるけど、忙しいなら来てもいいよ。)
「来てくれりゃあ嬉しいだけえが。休まんと体おやいちゃかんでなあ。」
(そりゃあ仕事してくれれば有り難いけど休まないで体壊されてもなあ。)
「まあなんしょ午前中なら電話してくれりゃあくっでね。」
(まあとにかく午前中だったら電話してくれれば来るからね。)
「はいね。」
(うん分かった。)
というのも「ず」は「ず」(ぬ・ないの文語形)といった打消し・否定の表現というイメージが強くどうもという感覚があるからという感情的な理由からきている。「ず」は気に入らないから「づ」を選ぶと言うなんの説得力もない根拠からなので普通の人は「ずら」の方が普及しているからそれでいいのであろうて。でも私は「づら」でいく。
ところで、単に語尾につければ昔の遠州弁の出来上がりという安易なものではなく、実はもっとバリエーションがあったという薄ら仄かな記憶がある。なにせもう当の昔に使われなくなっているので確かな事を言える訳ではないのだが。
「づら・づらあ・づらに・づらろ・づらで・づらよ・づらか・づらけ・づらさ・づらて・づらと・づらな・づらね・づらの・づらや」などなど。
「そう」を例にして今の遠州弁と共通語を較べてみると(尚、使っていないのであくまで想像)。ちなみに「そう」の前に「やっぱ」(やはり)を置くと判り易いか。それぞれの使用頻度についてはよく分かりません。あっただろうと思われるものも想像で書いてます。
「そうづら」→「そうだら」→「そうだろ」
「そうづらあ」→「そうだらあ」→「そうだろう」
「そうづらに」→「そうだに」→「そうじゃないか」
「そうづらか」→「そうだか」→「そうなのか」
「そうづらで」→「そうだもんで(だで)」→「そうなのだから」
「そうづらよ」→「そうだわあ」→「そうなんだよ」
「そうづらけ」→「そうけえ」→「そうなのかい」
「そうづらさ」→「そうさあ・そうだよを」→「そうだわさ」(自信なし)
「そうづらて」→「そうだって」→「そうだろうて」
「そうづらん」→「そうかいやあ」→「そうかしらん」
「そうづらと」→「そうだってって」→「そうだと」
「そうづらな」→「そうだらな」→「そうだろうな」
「そうづらね」→「そうだらね・そうだいね」→「そうだろうね」
「そうづらの」→「そうでえの」→「そうだろうよ」
「そうづらや」→「そうだら?」→「そうなんだろ」
「そうづらが」→「そうだん・そうだけが」→「そうだけど」
ってな感じかな。間違いあったら訂正しておくんなまし。
づらら・づらもという言い方があっても不思議ではないがなんか違和感を感じる。
「づら」は遠州弁では死語なので日常会話では使っておらずリアルな例文は書けないので略します。
あくまで個人的意見です。
日本語の乱れのひとつと言われている「ら」抜き言葉。最近のニュースでも伝えられていた。
しかしながら遠州弁は「ら」抜き上等どころか「てにをは」すら省くことが可能なものは省く方言なのである。そういう意味では時代は遠州弁に近づいたということにもなる訳であるが。憂いてる人達から見れば遠州弁は悪の根源ということになるのだろうか。
例えば
「昨日はとても楽しかったです。お父さんとお母さんと妹とぼくの家族4人皆で動物園に行ってきました。妹は虎やライオンを怖がってたけどぼくは色んな動物が見られて本当に楽しい一日でした。」
これを遠州弁に近づける第一歩として先ず抜けるものを抜く。
「昨日とても楽しかったです。お父さんお母さん妹ボク4人家族皆で動物園行ってきました。妹は虎やライオン怖がったけどボクは色んな動物見れて本当楽しい一日でした。」
次に言葉を変える
「きんのうがんこ楽しかったやあ。おっとさおっかさ妹わし4人うちん衆みなして動物園行っただよを。妹虎ぁライオンときゃひゃあひゃあゆっとたけがわし色んなのたんと見れてがんこ楽しかっただにい。」
そして順序を入れ替えしさらに言葉を変えて全体を整える
「がんこきんのう楽しかったやあ。うちん衆らと動物園行ってさあ おっとさおっかさ妹らとみなしてえ。妹虎ぁライオンだかにゃあひゃあひゃあこうるさかったけが、なんしょこらしょと色んなの見たもんでホントがんこ楽しかっただにい。」
最後に自分が話すとしたらという形に変えてみる
「や、きんのうがんこ楽しかったやあ。動物園うちん衆らと行ってさあ。いもうたぁ虎とかライオンでひゃあひゃあこいとっただん、わしい馬鹿一杯色んなの見れたもんでホント楽しかっただよを。」
(あくまで作為的な一例であり使い手によって形態は異なるのであるが)
というようにまるさら失くすというのは無理にしてもかなり省くと共に入れ替えもかなりする。こうなるから日本語ぶち壊しといわれるのかな。でも
「昨日真にもって快なる日たり。父母妹自分4人家族うち揃いて動物園観覧す。妹虎及び獅子に驚愕するも我れ多種の動物見物致し至極満喫したり。」
とかの言葉堅くしたもの(知識がないので滅茶苦茶だけど)には近いんだから別にいいじゃんという気になるのは言い訳か?
話しは変わるが、文法やらなんやらの小難しい事は知らんし書き言葉を話し言葉に変える事自体ふざけた事だが、なんしょ違うだよ。だもんでいっちゃあなんだが方言だっつってそういう単語ばっか羅列して説明したってしゃべれやせんだいねホントは。
まあとにかく、根っ子の部分からして共通語の言い回しと遠州弁の言い回しは違うということですわ。それにイントネーションも当然違ってこれは聞かないと分からないから、いつか音声つけて説明するブログにしてみたいところでありますがなにせ知識がないんで夢のまた夢でありますが。
「やめる」を例にすると
「はあ じき ばんげしたん なるで ここんさあで やめまい。」
(もうじき日が暮れるからここいら辺でやめにしよう。)
「そうだの やめまいか。」
(そうだね、やめにしようか。)
と、言った風にやめよう→分かったという決断→同意という流れとして「まい」→「まいか」が使われる。では最初に「まいか」を使うとどうなるか。
「はあ じき ばんげしたん なるで ここんさあで やめまいか。」
(もうじき日が暮れるからここいら辺でやめにしないか。)
「そうだの やめまい。」
(そうだね、やめにしよう。)
と、言った風に同意を求める→承諾するという流れになる。
共に「まいか」を使うと
「略 やめまいか。」
(略 やめにしないか。)
「そうだの やめまいか。」
(そうだね やめにしたいね。)
同意を求める→同調するという流れになる。
やめると言い切ってはいないので「どっちなんだはっきしせよやあ」(続けるのかやめるのかはっきりしろ)とつっこみいれたくなる感じのお互いどうしようと迷ってるうじうじとした感じ、もしくはなし崩し的にやめるみたいな感じになる。
逆にどちらも「まい」を使うと、決定→賛同といった趣きとなり、体育会系のような「やめよう」・「その通りだやめよう」みたいなきっぱり感が湧く。
立場が対等でない場合、目上に「やめまいか」というのは馴れなれし過ぎるので「やめるかあ」とかを使うことになる。「まい」に関しては個人差はあるが使ってもムッとはされない事が多い。
目上はどちらを使ってもとんじゃかない。しかしながら「まいか」を連発すると決断力のない人の声をやけに気にする奴と思われがちになる。
強引にまとめると
「まい」は決意・「まいか」は伺いというニュアンスになる。
ちなみに古語辞典で「まい」は載っていないが「まいか」は「婉曲に希望し、勧誘する意を表わす」として載っている。意味はその通りなので想像ではあるが、「まいか」が本来あってそれの強調形として「強く希望し誘導する」みたいな使い方で「まい」が発生したんじゃないのかなと。勝手な想像ですけどね。
ちなみのちなみで古語辞典に載っている「まい」(打消しの推量を表わす)と遠州弁の「まい」はその意味が全く異なる。
この系統では他に「まいや」(しようじゃないか)と煽る・提案するみたいな表現とか「まいに」(現在うまく説明できない)とかもあるのだが「まいか」にニュアンスが近くて説明するにこんがらがってくるのでまた別の機会があれば。
後、同じ意味使いである「ざあ」・「ざあや」については本家はしぞーか弁らしいのでそちらを勉強してから述べることにします。
例文音声はこちら
ちなみに遠州人というか自分が受ける感覚でいうと、「ざあ」って「さあ」(いざ)って感じみたいに受け取れるのでなんか直ぐやれみたいな印象を受ける。なので「まい・まいか」の方が緩やかで「ざあ・ざあや」だと早急にというイメージを持っている。合ってるかどうかは定かではないけれど。