遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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遠州弁を代表する言葉「だ・ら・に・い・だもんで・ほい(おい)・ほれ・やあ(やい)」
この中で他地方の人が苦労するのが「だら・だに・に・にい・ら・らあ」の使い分けと解釈であろう。えらそうな事をいうつもりはないが原住民としてはそれをどうアドバイスしたらよいかというのを考えてみることとする。
まずは、時の流れ的にいうと昔は(強引だけど)すべて「づら」で済ませていた。名詞だろうが動詞にだろうが構わず「づら」はつく。
「雨づら」だと(イントネーションで使い分けているのであるが)「雨だろう」・「雨だよ」・「雨だろ?」・「雨か」・「雨かい」・「雨だね」等など。
「雨づらか」だと「雨なのか」・「雨かあ」・「雨だなあ」等など。
それが最近は細かく分かれて「だら・だに・に・にい・ら・らあ」を使い分けるようになったという経緯のような気がする。したがって分からなかったらとにかく「づら」を使えば時代遅れと失笑を買う事にはなるが間違った使い方と指摘される事はなくなる筈である。多分。
でもまあ今の遠州弁を覚えようという意識がもしあるとしたらまずは以下の如くだと覚える事が初歩といえるのではなかろうか。(「にい」と「らあ」は難しいのでこの際省く。)
「に」→「よ」 行くに(行くよ)
「ら」→「でしょ」 行くら(行くでしょ)。共通語で近いのは「そうかしら」の「ら」。
「だに」→「のだよ」 行くだに(行くんだよ)
「だら」→「だろう」 行くだら(行くだろう)
厳密な根拠があって言う訳ではないが「だ」は確定を表わす。「に」は相手に押し付ける気持ち(軽い命令・指示)を表わす。「ら」は推量(憶測)を表わす。
もちろん
「に」→「のに」という使い方がある。 やれっちゅやあやったに(やれって言えばやったのに)。それんなんでゆわんかったよ(それをどうして言わなかったんだ?)。
なんにでも「に」がつくわけではない。名詞の後には「に」はつかず「だに」となるし、「降れ雨に」(降れ雨よ)とか「雨降れに」(雨降れよ)・「今日来いに」(今日来いよ)とかいう事にはならない。(正しくは「降れ雨やあ」・「雨降れって」・「今日来ない」)
「ら」→「ろう」(らう・らむ)
「だに」→「だのに」 せっかく来ただに(せっかく来たのだのに)。はあ帰れってか(もう帰れってか)。
「だら」→「だろうに」 そうゆうもんだら(そういうものだろうに)違うか?(違ってるか?)
などといった微妙な意味使いの違い・ルールもあるので確定だ推測だとかいう論法では収まらないものとかが出てくるのだがそれを理解するのは中級クラスでと勝手に決めるとして。
とにかくとりあえず「よ」・「でしょ・だろ」・「だよ」・「だろう」と覚えればヒアリングに関してはとっつき易いのではなかろうか。
発言するにおいて注意すべき点は語尾を安易に伸ばさない事(長音化させない事)。ニュアンスが大きく変わってしまう。特に「にい」の場合には言い方(長音化ではなく「い」を強く発音する)によっては強い命令形となってしまう事があるので配慮が必要である。
もちろん喧嘩売るつもりでいるのならどれでも伸ばして言えば大抵なめた物言いとなるので本意とはなるが。
些細な違いなんだろうけどちと気になったので。
テレビ見てたら「赤じそ」を紹介しそれを使った料理も紹介・試食されていた。
その際一部始終アナウンサーさんは「赤しそ」と発しておられた。テロップも「赤しそ」であった。
うちらの感覚だと「赤じそ」なんだけどなあと。
これって些細な方言になるのかしらん。
「に」+「い」=「にい」であって言い方の癖による「に」の長音化ではないのでは?ということを以前の「い」という記事で述べたのであるが。その際「い」を訳すにおいて「よ」を充てたのであるが「に」も訳すと「よ」となることがありそうで、そうなると「にい」は「よよ」となるという矛盾が生じてしまう。
例えば「手入れしんと禿げるに」。これを訳すと「手入れをしないと禿げるよ」となる。そして「手入れしんと禿げるにい」を訳すと「手入れをしないと禿げるよう」とほぼ同じになる。「にい」は単に長音化なのか。
「手入れしんと禿げるだにい」であれば「手入れしないと禿げるんだよ」。
「だに」であってもお仕着せ度合いは強まるが訳すにおいては大きな違いがある訳ではない。
そもそも「に」ってなんだということが気になる次第
辞書によれば、「に」(終助詞)何かの事情でその通りにはならなかった事に対して、それが実現した場合の事を想定して感動する事を表わす。「残っていればよかったであろうに」。
(接続助詞){雅語}後件に述べられる動作・作用がどんな状態で行われるかを表わす。「それを聞くにうれしき限り」。
古語辞典によれば、「に」(終助詞)①他に対して願望する意を表わす。・・・してほしい。・・・してもらいたい。「ね」に同じ。②・・・のになあ。・・・だぜ。
「に」断定の助動詞「なり」の連用形。①・・・であって②接続助詞「て」「して」を伴って、中止の表現に用いる。・・・で。・・・であって。③補助動詞「あり」「おはす」「候ふ」「はべり」を伴って用いる。・・・で。
「に」{上代語}打消しの助動詞「ず」の連用形。・・・ないで。・・・ないので。
とまあこんな感じか。どれも微妙にあてはまらない。後押ししてくれるものがないのでもう想像でしか話しできないところであるがやはり遠州弁の「に」は「よ」と訳すのが適当であって「にい」は「に」(よ)+「い」(よ)というのではなく「に」の長音化したものが「にい」(よう)ということになるのであろうか。ん~分からん。
普通は「かなづち」か「とんかち」と言うかな。
他の言い方を思い連ねて挙げてみると
「金槌」・「なぐり」・「げんのう」・「木槌」(きづち)・「さいづち」(木のとんかち)・「プラハンマー」(プラスチックのとんかち)・「ハンマー」
とかを言うけど。それぞれ用途によって材質とかも違うのであり。滅多に触らないど素人だとやはりなんでもかんでも「とんかち」と称すかな。だから私はなんでもかんでも「とんかち」と言う傾向にある。
例文
「よしっ。やらすかな。やい、なぐりくりょ。」
「はいね。」とポカリと一発。
「やいなにするだあ。ど痛えじゃねえか。」
「いやあ気合入れて欲しいだかと思って。」
「ばかっつら。とんかちだ。」
「随分じゃんいくらボケかましたたあゆえ、とんちんかんたあなによを。」
「おんしゃ耳ん馬鹿か?金槌だっつってんの。」
「そんならそうと最初からゆってくれりゃいいじゃん。」
「ってお前なにそこんさあの水掻き出してるだあ。」
「いや泳げんもんで水怖いもんでどかいて欲しいだら?」
「てめえなあ。げんのうっつやあ分かるだか?」
「まだげんなりするほど働いてもしん。それとも脳が減するほど疲れたってか?」
「遠州弁」で検索するとたまあに「我が地元はじゃんだらりんでお馴染みの遠州弁・・・」とかいうフレーズにヒットする。
「じゃんだらりん」は三河だろうとツッコんでしまいたくなる衝動に駆られるか、ああこの人湖西の人なんだろうかなと憶測したりする。
しかし「じゃん」も「だら」も使うわけだし「りん」は使わないにしても「りい」なら使わないこともなく。全く否定に走るというのも了見が狭いとも思える。遠州弁と一口に言っても掛川以東と浜松では相当に違いがあり、三河と遠州という括りでの比較と大して違わないものもある。
でもやっぱ「じゃんだらりん」は三河弁の代名詞だろう。いくら遠州弁と三河弁は似ていると言っても同じじゃないんだし三河の側からしてみればそんなとこまで遠州弁は三河の真似をするのか?と言われかねないよな。
なにしろ元祖は「三河」じゃなかろうかという風説もある「遠州弁」なだけにキャッチフレーズまで似せるのは自粛すべきところだろう。
ところで別の記事にも書いたけど「じゃん」。「じゃん」は相模の言葉として世間一般では通っている。遠州でも使うしおそらくは駿河でも使っているであろう。遠州としては三河から来た言葉なのか相模から駿河経由で来た言葉なのかどっちなんでしょうね。
少なくとも遠州発祥とは思えない。なぜなら遠州は昔は「づら」・「つら」が主流であり、「じゃん」と「づら」は共存できない使いどころがかち合う言葉であるから。それと「じゃん」を使うようになって「づら。つら」が衰退したとも考えられなくもないところであり「じゃん」は遠州にとっては外来方言であったのだろうと。
それと同じことが「だら」にも言えるような気もする。もしそうだとすると「づら」が「だら」に変化したという話しではないということになる。
こうして考えると「じゃん」と「だら」がほぼ同じ時期に入ってきて遠州弁が変わったと勘繰れなくもないところである。ということは相模から「じゃん」だけが入り三河からは「だら」が入ってきたと考えるよりも三河から「じゃん」と「だら」が同時期に入ってきたと考える方がスムーズに思える。
つまり「じゃん」は遠州人の立場から考えてくと三河が発祥の地と考えた方がスッキリするのだがどうなんでしょうね。