遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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「やらしょうや」。
訳すと「やらせろよ」。
これを少しいじって「やらしょうぞ」とするとなんか古文っぽくなる。(実際に遠州弁としてこんな言い回しはないが。)
考えてみれば「や」にしたって古語っぽいのだから「ぞ」にしなくても古文っぽい筈なんだが。
「やる」を「さす」に変えると
「さしょうや」となっていかにもな感じになる。もっとも遠州弁として訳すと「させろよ」で格調なんぞどこにもないが。「遊べや親のない雀」みたいなのとはえらい違いである。が、文字にすると近い言い回しに思えてくるのが不思議。脱線するが、遠州弁的解釈でいくと「遊べよな親のいない雀」というニュアンスとなる。
「やらまいか」の「まいか」にしたって古語辞典に載ってるような言い回しだし。
こう考えていくと遠州弁って古語の生き残りなんだろうかなあと改めて思えてくる。なのだが、だからといって学校で習う「古典」の成績が全国的にみて遠州人は普段使いしてる分優秀であるという話しなんか聞いたこともないという現実。
まあ口語と文語を一緒くたにするなというご意見と、英語の成績がいいからといって英語が喋れる訳でもないのだから納得ではあるが。
いずれにせよ単なる思い込みなんだろうかな。
「おいでん」。来なされとかいう勧誘の言い回しであるらしいが、全く使わない訳ではないのだろうが遠州弁だと普通は「きない」(来なよ)というだろうな。
「奥さん。おいでる?おいでん?」(奥さん居られる?居られませんか?)みたいな「見えられない」という打消しであるなら別に違和感はないが。
これが「おいでんさった」ということになれば「お越しになられた」もしくは「お見えになられた」といった感じの丁寧な物言いとして存在するのだが、「おいでん」だけだと丁寧にしては中途半端であるから違和感を感じてしまう。「おいでんな」辺りであれば「お越しくださいお待ちしてます」みたいな感じになってアリなんだけど。でも遠州弁からは大分外れそうな言い回しだよな。言うとしたら「おいでえな」だものな。
ということで「おいでん」という単独の使い方は遠州ではしないのではないかと思われる。
つまり「遊びにおいでん」(遊びにおいでよ)とかいう勧誘の意味の使い方はしていないという事。
だから「こっちいおいでんハニー」とかいう歌詞にはならない。
某国営放送のドラマにおけるスタッフロールを見ると、方言指導・~ことば・誰某としてある。
つまり土佐弁を土佐ことば・薩摩弁を薩摩ことばと。
言葉ではなくことばとひら仮名表記してある。外国語だと英語仏語とかであるが国内においては遠州語とかいう表記ではないようである。
るーるはもちろん必要である。
辞書にある各言葉の説明は
方言「地域的に見た、それぞれの言語(体系)の違い・狭義では共通語と違うものを指す)」。
弁「地方名の後につけてその地方独特の言葉遣いであることを表す」
ことば「社会ごとに決まっている、音声による表現」。
つまりなにも間違った使い方をしてる訳ではもちろんない。
でもなんでしょ、実際のところで考えると遠州弁としか普段言わないし「ことば」だと浜松ことばとか磐田ことばといったように遠州弁の中の細分類された言い回しという意識に思えるだけにもし「遠州ことば」と表記されたら違和感を感じるな。
「弁」という言い方は100姓と同じで自分が言うには問題ないが他人が言うと差し障りがあるということなのか。あまりそんな意識はしないのであるが。
方言という枠なら三河と遠州はひとくくりになるような気がする。なにせよく似てるから。ただ同じ言葉でもニュアンスが違う時が多々ある。
弁というのなら今の遠江の国の枠がしっくりくる。言い回し的には共通性を感じるが知らない単語が横行していたりもする。
ことばというのなら市町村別の枠だと思える。
つまり、なにを言いたいのかというと、今後もあり得ないことであろうがもし遠州弁をドラマで使うことがあったら某国営放送は「遠州ことば」とテロップに表記するんだろうな。でもそれってすごい違和感を感じるよな。
遠州弁においては「だら」・「だに」・「だもんで」とかがもてはやされる昨今であるが、他にも色々と言い方はあるだよ。その一部を羅列してみるべえや。
もちろん「だに」という言葉なぞはなく「だ」+に」であるように合体によって生み出されている物物であるが。(注、共通語訳については直訳というより誇張した勢いのものもあります)
「だいね」
「そうするだいね」(そうするだよね)
「だいな」
「そうするだいな」(そうするんだよな)
「だなや」
「そうせるだなや」(そうするだよな)
「だあな」
「そうするだあな」(そうするんだよな)
「だのえ」
「そうせるだのえ」(そうするのが賢明だね)
「だわ」
「そうせるだわ」(そうするつもりだ)
「だわあ」
「そうするだわあ」(そうするんですわ)
「だわな」
「そうするだわな」(そうするんだなこれが)
「だや」
「そうせるだや」(そうするんだ)
「だでね」
「そうせるだでね」(そうするんだからね)
「だかいや」
「そうするだかいや」(そうするのかな)
「でえの」
「そうするでえの」(そうするだよね)
他にも「だわさ」・「だかや」・「だいや」・「だで」等諸々とある。
逆に遠州では使わない言い回し
「ダスな」・「だんべ」・「だしょう」・「だじょう」・「でんな」・「でおま」・「でごわす」・「であります」・「でげす」・「でんがな」。傾向としては「で」よりも「だ」を多用する種族とも勘繰れる。
例えば
「ほんに この世は おそろしや」
という古文チックな文章。これを遠州弁に変換すると
「ホントこの世はおそろしいやあ」
となる。
つまり普段使わない「ほんに」を普段よく使う「ホント」に置き換えて、「おそろし」を今の「おそろしい」に「や」を長音化し、「おそろしい」と「やあ」とするとばっちり遠州弁になる。
微妙に変化しながらも古文テイストが生き延びてるのが遠州弁ではなかろうかというお話し。だからといって遠州人は古文がなんとなく読める事が出来るという訳でもない。