遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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遠州弁関連
「やあしばれるねえ」と「やあどさぶいなや」の違い
使ってる訳では無いのであくまで想像だが北海道で使われる「やあ」と遠州弁での「やあ」は全くの別物である。(って北海道弁をよく知っている訳では無いが。)
「やあしばれるねえ」だとそのニュアンスは「まあ寒いねえ」とか「ああ寒いねえ」とかであろうか。
遠州弁での「やあどさぶいなや」となるとそのニュアンスは「なあ寒いよねえ」・「おい寒いじゃねえか」とかいったものになる。江戸っ子風味の「やい」に近い。というか遠州弁でも「やい」は存在しており「やあ」は「やい」を柔らかくした言い方という位置づけであろう。
北海道の「やあ」は「なんと」といった感嘆であろうか
遠州弁の「やあ」は「ちょっと」とかのような呼びかけの勢いが強い。もちろん独り言としても使われるものであるが。
北海道の「やあ」は感嘆であろうからそれに反応しなくとも問題はなかろうが、遠州弁での「やあ」は呼びかけなのでなんらかの反応をしとかないといけない事が多い。
例文
「やあどっさぶいなあやあ。」
「しょんないじゃん冬だもんでえ。」
「なんとかならんだか。暖房効かしょやあ。」
「節電だで我慢するだあれ。みんなしてるだで。」
「ふんじゃせめて懐くらいはあったかくしたいで小遣いくりょ。」
「ばかこいちゃかんにい。どうゆう理屈でそうなるよを。」
遠州弁関連
なんか変だなあと感じる遠州弁
「帽子がぬくとい」
「帽子がぬくとい。」というのは間違ってはいないのだが、おかしな言い方と感じる次第である。
そりゃもちろん懐炉とかヒーターとかが仕込んであってホントに帽子そのものがあったまる機能を有しているというのなら話しは別だが、あくまで「ぬくとい」のは「頭が」であって「帽子が」ではないのである。
「帽子かぶったもんで(頭が)ぬくとい。」とか「この帽子(頭が)ぬくとくていいだよ。」
とかの言い回しに於いて「頭が」というのがはしょられた言い方をするのが普通である。
つまり何が変かというと「が」を入れるからおかしくなるのである。「帽子が頭がぬくとい」となるからであろう。
「帽子はぬくとい」や「帽子でぬくとい」とかなら違和感はないところで、「は」や「で」を省いての
「帽子ぬくとい」または「帽子んぬくとい」
であれば「帽子で温かい」・「帽子は温かい」とかになって違和感はない。
もしくは「ぬくとい」を使わず「あったかい」とすれば
「帽子があったかい」
であってもおかしくはない。誰かがさっきまで被っていたとか日向に置いてあったので暖まったみたいな情景が想像されるところである。
必ずしもではないが「ぬくとい」には気持ちがいいというニュアンスが含まれる場合が多い。
こうしたように「ぬくとい炬燵に入りたい」ではなく「炬燵にはいってぬくたまりたい」、「まだぬくといエンジン触ってみい」ではなく「触ってみいエンジンまだぬくといに」といった風になるのが普通であろう。(こうした違和感を感じる使い方には「あたたかい」を使えば解消される。)
「昨日買ってきた帽子がぬくといやあ。」は変。「帽子が頭がぬくとい」という文章になるからおかしいと感じるのであろう。「帽子はぬくとい」とすれば違和感はない。
「昨日買ってきた帽子がぬくとくていいだよ。」は有り。「帽子は頭がぬくとくて」という文章となるから。
例を変えて
「ふとんがぬくといもんで起きるのがおっくう。」
この場合には違和感はない。「帽子」は変で「ふとん」は変じゃないというのはどういう事かということになるのだが、布団の中にいることが温かいと言っている訳で布団そのものが温かいと言ってる訳ではないのであるから。
「冬用のぬくといふとん」には違和感を感じのもので「冬用のあったかいふとん」と言うものである。「ぬくとい」のはあくまで自分がである。
遠州弁関連
例えば「食べまいか」のニュアンス
レベル 日常レベル
どこぞの方言を解説するサイトで他の地方の言い回しとの比較ということで三河・遠州の「食べまいか」。
これを「食べないか」と訳してあった。が、なんかざらつくぞとふと感じた。三河はそうなのかは知らねど遠州では?である。
どこら辺がというと、「食べまいか」は「食べようよ」であって「食べませんか?」と伺っているのではないのである。
促しという意味では違いはないのだが、極端な喩えでいうと
率先(もしくは先導)、つまり先に自分が手を出さんばかりに「あんたも食べなよ」というのが「食べまいか」。同調を求めている言い回しなのである。
勧奨、つまり勧めているというのが「食べないか」で、こちらは必ずしも同調というか勧めてるけど自分も食べるとは限らない。
こういう感じでお客さんとかに「どうぞ」と勧めるような場合に於いて「お客さん食べまいか。」という事は無いのである。この場合には「お客さん食べてやあ。おいしいにい。」とかである。(おいしいにい=おいしいから・おいしいに=おいしいよ。)
自身と同じ事を相手にも求める際に使われる事が多いのが「まいか」(ようか)である。そういった意味では「まい」(よう)と同じものであるが、「まい」は強めの言い方であり促すというより要請(強要に近い)という勢いの違いが「しよう」と「しようか」の違いと同じくらいに「まいか」と「まい」にはある。
それと「ケーキ食べまいか」を「ケーキを食べないか」では
「甘いもの食べたいね、今から買ってくるからケーキを食べないか。」というのを
「なんか甘いもん食いたいと思わん?ちゃっと買い行くでケーキ食べまいか。」と発するのは間違ってはいないのかもしれないが普通は言わないものである。こういう場合は
「なんか甘いもん食いたいと思わん?ちゃっと買い行くでケーキ食べるかあ。」もしくは「食べん?」といった風になる。
これはどういうことかというと、「まいか」は目の前の出来事に対して使われる傾向が強く「ケーキ食べまいか」と発したら普通は目の前にケーキが存在したうえでの発言と判断されるものである。したがって例において「まいか」を使いたいというのならまず先にするべきことは「買いに行く」ということなのだから
「なんか甘いもん食いたいと思わん?ケーキにしん?だもんで今からちゃっと買い行きまいか。」もしくは「ちゃっと買い行ってケーキ食べまいか。」
という事になる。
つまり「まいか」を「ないか」と訳す(例えば「しまいか」=「しないか」)という程単純なものではないのである。
ちなみに「食べまいや」となると「食べようや」となる。そういったところからすると「まいか」=「ようか」とした方が「まいか」=「ないか」よりかは近いニュアンスといえるのかもしれないと思える。
遠州弁関連
個人的感想
「あの人遠州弁使ってるよ。」というよりも「あの人遠州弁こいてるにい。」と言った方が遠州弁っぽい。
じゃあ「遠州弁の使い手」というよりも「遠州弁のこき手」と言う方がらしいのかというと微妙なところである。というか変ではあるよな。
「こく」という言い方は遠州ではよく使われるもので重宝されている。全国的な俗な表現であって特に遠州弁という事では無いのだが頻度は高い地域であるというのは言えるだろうな。
ちなみにネット辞書には
「こく」(放く)
体内にあるものを体外に出す。たれる。ひる。
「言う」・「する」を卑しめていう語。
とある。
が、遠州弁的感覚からすると卑しめていうという感覚は希薄である。むしろ親密具合を表する言い回しというか仲のいい相手に発するものであって卑しめとは真逆に近い。
そういったところが地域独特というのであれば遠州弁といえなくもないか。
例えば、「あんた屁えこいたらあ。」と「あんた屁えしたらあ。」とでは言い方にもよるのであるが「こいた」はオイオイというボケもしくはご愛嬌に対するツッコミであり「した」は「しただろう」というような詰問調な勢いといった違いが感じられる。
そういう意味では「遠州弁こいてるらあ」と「遠州弁出てるじゃないか」も「屁」での使い方による違いと同じような印象の違いが感じられるところである。
遠州弁関連
「行こまい」と「行かまい」
「行こまい」は名古屋弁で「行かまい」は遠州弁だと区別しているところをみかけたけどそうなのか?
ちなみに遠州弁的解釈でいうと
「行こまい」は「行こうよ」
「行かまい」は「行こうか」
誘いということにしても「行こうよ」は勧誘であり「行こうか」では催促と取れなくもない。
両方使ってる(意味は通る)ってことでどっちが遠州弁でと区別する必然性が無い様に思える。それは名古屋弁の側からみても同じ事であろう。
「する」を例にすれば
「しよまい」・「しまい・しまいか」という形になるがどちらも使うものである。
「やる」でも
「やろまい」・「やらまいか(やらまい)」どちらも使う。
しかしてまあ傾向としては「しよまい」も「やろまい」も使用頻度は高くはないが。
要はよく使われるかどうかの違いであってどっちが名古屋でどっちが遠州の言葉というものではないように思える次第。
とは申せ例えば「さっさとやってしおうぜ。」というのを
「ちゃっちゃとやっちゃわわまい。」・「やっちゃわいまい」などと遠州では言うのであるが「やっちゃわろまい」や「やっちゃおまい」とかいう言い方はしない。
てなことで、傾向としてもやはりそういう方向なのであろうかな「いこまい」が名古屋で「いかまい」だと遠州っぽいというのは。「やろまい」と言われて意味は通じるが発することはあまりないところである。