遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
遠州弁関連
最近「つういったあ」とかで「遠州弁」検索すると
「づら」は遠州弁じゃあない
というコメントをたまあに目にする。
ふんだだこたねえら
というお話し。
確かに最近の遠州人は「づら」を使わなくなった。自分もしかり。
しかして明治・大正生まれ世代の遠州人は「づら」・「つら」を普通に使っていた。
昭和生まれから使わなくなり始めたと、うちんとこらへんは言える。(地区によってずれがあろうから。)
一例として
「どこにやったんだろ」→「どこやったづらや」
「どこにやったんだろね」→「どこんさあやっつらやあ」
ちなみに今は
「どこやっただいや」
「どこやっただいね」
とかになる。
繰り返しになるが「づら」は遠州でも使われる言葉である。正しくは「使われた」に近づいているが。
「づら」は絶滅危惧種の遠州弁というのが正しい筈である。
「づら」は遠州弁じゃない
ではなく
「づら」は昔遠州弁でも使っていた
というのが正しい。
こういう初歩的なことをと思うのだが、最早「歴史」のお話しになってしまうのかとちょっと感慨な面持ちといった気分になる。
これを遠州弁で表わすと
「やいやいだの、ほんとにけ」
遠州弁関連
遠州弁は気の合う仲間内の言葉であって打ち解けていない衆に遠州弁を使うというのはなんだかなあというお話し。
異動で来た奴がはなから遠州弁丸出しで仕事の会話をしてくる。
はっきり言って「なんだこいつホント馴れ馴れしい。」と不快に思う。
共通語は不得手で遠州弁の使い手ん十年の自分でもそう思える。
「礼儀」というものが存在するのであれば、遠州弁は親しくなってから使うものでそこに至るまではよそよそしくても共通語もどきを使うべきというのが遠州で生きる上での「マナー」であろう。
テレビとかの街頭インタビューとかで、遠州弁丸出しという人にはまずお目にかかれない。抑揚はともかく共通語たらんと皆するものである。それが「マナー」であるから。方言が出るのが恥ずかしいと思うからではなく、馴れ馴れしい(ずうずうしい)と思われたくないからである。
それはたとえこういったブログやツイッターとかで知るに至った遠州弁繋がりの人に対してであっても共通語もどきを使うもので決して遠州弁全開という訳にはいかない。
遠州人同士でもそういう「礼儀」はあるものである。
手っ取り早く遠州弁を聞きたいというのであれば凧揚げ会場に行けば好い。そこで交わされる会話は同じ町内のうちうち同士の傍目を気にせずただ凧を揚げることに集中した会話であるから。
普通であれば始めに書いた「ばかっつら」みたいなのは例外として、遠州弁が出始めたら親密度が増した証しと言える。逆にいつまでたっても共通語もどきのままだとよそよそしいままということになる。
使い分けしてこその遠州弁であって所構わず発したらそれはやはり「ばかっつら」の領域といえようか。
遠州弁関連
えせ遠州弁と聞こえる言い回し
例えば「晴れだらで」
レベル 超個人的意見
最近遠州弁ネタを探しにネットを散策するを頻繁としてるのだが。関西の人がえせ関西弁使われるとイラッとするという気持ちが分かるようになった。
まあもちろん正しい遠州弁なんて存在しないのであくまで自分がざらつくだけであって他の衆らがそう思うかまではとんじゃかないのであしからずな超個人的意見。屁理屈からいくとおかしいというものではなく理屈じゃ説明できないけど感覚的にざらつくというものである。
とにかくですなあ、何を言ってるのかはおおよそは判るのだが、結局は何を言いたいのかが分からないのである。実際から例を挙げるのはどうかと思うので多少脚色して例を挙げると
「明日は晴れだら」
これなら「明日の天気は晴れだろ」で違和感はない。しかし
「明日は晴れだらで」
とかになると「明日は晴れだろうから」とか言ってるのかなと推測できるのだが(直訳だと「明日は晴れだろので」と聞こえる。)そういう場合は
「明日は多分晴れだで」もしくは「明日晴れだら。だで云々。」
とかになるのが普通である。
これが「づら」であるなら「晴れづらで」となって違和感はない。「づら」と「だら」を混同してるとこうなるのか、それとも「だら」は「だろ」に置き換えられるということで共通語を単語ごとに単純に変換するとこうなるのか。
次に「やったんだら」。これも間違いではないのかもだがやっぱ変。推測・憶測というニュアンスで「やったのだろ」と言いたいのであろうと推測できるのだが
「誰かがやったんだろ」という場合には
「誰かやっただら」
というのが普通であって「誰かやったんだら」では違和感がある。
他には「だら」ではないが「だに」
「ごはんするだに」
これは「ごはんにするだに」というな普通は。
てにをは抜きは遠州弁の特徴のひとつでもあるが、この場合とかは「に」抜きするとざらつきを感じる。
これが例えば「宴会するだに」だと「宴会するだよ」で違和感はないし返って「宴会をするだに」ではざらつきを覚える。「宴会」と「ごはん」の違いはなんぞやと問われても応えに窮するものだが、なんしょそうだあれ。そうなってるだ。
きりが無いのでまた気が付いたらその2として。
ドラマの感想ではありません。
三河弁が炸裂してるドラマということで
遠州弁と三河弁の違いを勘繰ってみようかという内容。
先に結論書くのはどうかとは思うが
遠州弁と三河弁は大きくは違わないが細かい機微(ニュアンス)の部分は違うものだというのを感じた。
まず、ドラマで使われる三河弁が実際使われている三河弁かという点について。
往々にして「なんちゃって」みたいな「もどき」方言なドラマが多いという点、次に役者さんは地元民ではないことが多いだけに抑揚が正しいかどうか怪しいという点、この2点はドラマ・映画においていぶかしく思わざるを得ない点なのだが
このドラマの監督の園子温監督は愛知県豊川市のご出身という付け焼刃ではない三河弁の使い手であろうと推察される。
そういう人が監督されてるんだから、それ相応に信ぴょう性は高かろうと踏める。
抑揚については役者さんの面子からして本来共通語の使い手さんばかりだから、鵜呑みにするわけにはいかないだろうかも。
ということで、言葉づらだけに絞って抑揚については比較しないという方向でいこうかと。
で、
まずさっと観ての気付いた違いをば列挙
共通語→三河弁→遠州弁の順で
共、なあ凄いだろ?→三、なあ凄いだら?→遠、なあ凄いら?
共、持って行きなよ→三、持ってきりん→遠、持ってきい・持ってきない
共、見ようよ→三、見よまい→遠、見るかあ・見まい
共、寄っていこうよ→三、寄ってこまい→遠、寄ってっかあ・寄ってきまい
共、彼女いるんだよ→三。彼女おるんえ→遠、彼女いるにい・彼女いるだにい
とまあ、ぱぱっと一回観ての違い。「見よまい」は遠州でも使わなくはないが改まった感じがして普段使いではない。
三河弁と遠州弁は似ている癖に同じ言葉でも異なる意味使いになってややこしいというのが「だら」であろうか。
「なあ凄いだら?」は遠州弁だと「なあ凄いんだろ?」という意味なって凄いだろ?と同意を求めるのではなく凄いんじゃないのか?と尋ねているということに変わってしまう。
全く遠州では使わないのは「おるんえ」であろうか。
モロ名古屋的な言い回しもやはり結構あったなあと思えた。
個人的感想としては夏帆さんは上手い。天然コケッコーでの石見弁も(石見弁を知ってるわけではないんだが)上手いと感じたが、三河弁の抑揚もとても自然と感じる。