遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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「消しゴム」と言っている。基本男言葉だが女子にも使い手は居る。ま、遠州独特ということもないだろうが遠州でも使うよということで。
例文
「はあずいぶんにけっしいちびてきたで買うかな。」
(もう随分と消しゴムが小さくなってきたから新しいの買おうかな。)
「なにんするよを。砂けっしいけ、モノけっしいけ。」
(何にするの砂消しゴムかいそれともトンボのMONO消しゴムかい?)
「消すと匂いする奴あるじゃん。いい匂いする奴。あれにしっかな。」
(擦ると匂いがするのがあるだろ。いい匂いのするの。あれにしようかな。)
「女子じゃあるめえし似合わんでやめない。」
(女子じゃないんだからさ馬鹿にされるから止めときなよ。)
「んじゃプラ消しじゃなくてゴムでいかすか。」
(それじゃあプラスティックの消しゴムじゃなくてゴムの消しゴムにするかな。)
「おっ!男前やし。」
(おお男っぽいなあ。)
例文音声はこちら
古い想い出話しであるが、製図用の消しゴムは小学生には大人の持ち物であった。中学に入って初めて図工の時間で使った時には「大人じゃん」と実感したりもした。
小学生(低学年)の頃の消しゴムはゴム製のものばかりで保管状態が悪いとすぐカチカチ・ツルツルになって最後まで使い切れるということはなかった。そうなるとわら半紙との相性も良くなくなりしょっちゅう破いてしまう粗相もしたよなあ。
中学生辺りになるとプラスチック製のものが幅を利かせ始めて匂い付きのものとかカラーバリエーションに富んだものとか選べる種類が徐々に多くなってきた。一時ゴムじゃないんだからと「プラ消し」と呼んで区別化していたけどそれはほんの僅かの間であった。いたずらとして誰かの消しゴムに2B辺りの鉛筆で消す部分に鉛筆の粉を擦りつけといて消すと消えるのではなく真っ黒になって真っ青というのを愛でるという悪さとかをしていたりしてた。シャープの中の替え芯入れるところにちっさい消しゴムにほっそい針金が突き刺さっていて、予備芯がこぼれ出ないように蓋として使われてたんだろうけどなんでプラ消しじゃないんだろうと疑問を抱いたりとかもしてたなあ。
高校以降は文房具に対する愛着は薄れていったのだが、社会人になってレーダーの消しゴムが会社に配備されていてなんかプロになった気がしたのは覚えてる。ああ仕事してるんだあと。性能云々とかじゃなくパッケージのデザインが。
大人になると「けっしい」と呼ぶことはなくなったので、使用年齢が限定されている表現であろうが、どの世代でも一度はそう呼んでいたということで誰もが身に覚えのある言い回しであろう。
「キックバック」。ぽんぽん(オートバイ)用語か。全国的に広まっている表現であろうが遠州(浜松)は一応ぽんぽんの町と呼ばれてたこともあるだけに載せぬわけにはいかないだろうという事で記載。基本は「ケッチン」とカタカナ表記らしい。ぽんぽん乗り用語なのでライダーであるなら男女問わずの用語。
例文
「なによを。あいつう骨折っただって?なにしたでえ。」
(ねえねえあいつ骨折したんだって?何があったんだ?)
「おお折ったかどうかまでは知らんだあ○○ちゃのぽんぽんエンジンうまく掛からんかったの見て『やらしょ』とかいってやったら見事にけっちん喰らってそのまま病院だってよ。」
(うん。骨折ったのかどうかまでは知らないけど○○君のバイクがうまくエンジン掛からないのを見て『俺にやらせて』とか言ってやってみたらものの見事にキックバックで足打ってそのまま病院行きだってさ。)
「馬鹿じゃん。てめえを知れっつうだいな。」
(アホだなあ。自分の力量考えろっていうのに。)
「だらあ?ごんじゅう乗ってる奴のやるこんじゃないらあ?しかもつっかけだっただって。」
(だよねえ。50cc乗ってる奴の手に負える代物じゃないのにね。しかもサンダルはいてキックしたんだって。)
「死にたいだらあなあ。」
(恐れを知らんにもほどがあるなあ。)
例文音声はこちら
キック式でのエンジン始動の際、タイミングを誤るとエンジン内の圧縮されたガスの勢いでクランクが逆回転してキックペダルが押し戻される事を言う。
「蹴り返し」という奴であり普通は「けっちんを喰らう」と言う。当然モロに当たれば痛いことこの上ない。下手したり当たり場所によっては骨折の憂き目にも遭う。
底の浅い経験値でいうと、4ストの多気筒を基準とすると2ストはスカスカで手応え(足応え)が薄い。けっちん喰らっても左程ではない。なので調子こいてバカスカキックしてくとプラグがカブってしまって却って掛からなくなる。予備のプラグ二・三本はいつも用意してた。
手強いのは4ストの単気筒ではなかろうか。600ccの単気筒車を買った時仲間内から「けっちん」だけは気をつけろ気を抜くなとよく忠告された。なので足が滑らないようライディングブーツを必ず履くように習慣付けていた。おかげで骨折したことは一度もなかった。それでもライディングブーツ履いていてもガツンとくる衝撃は結構なお手前でありまして。オートデコンプ付いてたのにねえ。
それが恐いからとびびって中途半端にキックするとその方がかえって「けっちん」喰らい易くなるものでありまして。「コツ」というものが愛着にも繋がるところではありました。
ある種の儀式みたいなもので、自分にしか掛けられないということになるとちょっとした優越感と一体感とが味わえて心地よくもある。これに快感を覚えるとセルスタートは物足りないものでもある。
今はセルオンリーってのが多いからもうすでに死語化してるのであろうか。
「けっこい」(綺麗な)「けっこいお人形さんだね」
「けっこく」(綺麗にと)「けっこくしとかんと駄目だにい」
「けっこく」(綺麗に)「けっこくしときなよ」
「けっこに」(綺麗に)「けっこにしてるじゃん」
「けっこか(ない)」(綺麗じゃ・では)「か」は「くは」の短縮形なのだろうか。
「けっこで」(綺麗で)「それでいいじゃん。けっこでいいじゃん」
「けっこ」とは結構の詰まった言い方という説があるらしいのだが本当に「結構」の変なのか?どうも胡散臭いな。
訳すと「綺麗」・「整ってる」とかいう事になる事がほとんどで「結構」と訳すとややこしくなる気がする。
辞書を引くと
「結構」{副詞}完全ではないが、一応満足出来る様子。「けっこう(=かなり)おいしい」。「けっこう(=なんとか)役に立つ」。とあるのが一番近いか。
それに当てはめると確かに人の容姿とかに対して「けっこい」を使うのはおかしいことであるという理屈とは折り合いがつくよな。一応満足できるということなんだから「そこそこ」というニュアンスで手放しの賛美ではないのだから。
「けっこ」=「結構」であるとすれば綺麗は美という意味ではないことだけは確かなようだ。従って「あの子けっこい」というのは賛辞ではなく誤った使い方ということになる。
「お客さん来るでけっこくしときなよ」という使い方は間違ってはいないということになる。
でも実際は「けっこいお人形さん」というように必ずしも「そこそこ美しい」という訳にならない使い方もされている訳で。
「けっこ」=「結構」は納得する部分もあれば?と感じる部分もありということで決め手に欠けるけど。どうなんでしょうね。
「結構」と書く。
どうも共通語と遠州弁とではそのニュアンスが微妙に異なるようなので記載。
例えば「けっこう重いよ」と発した時その重さの程度の受け取り方が異なる場合がある。「十分重いよ」なのか「意外と重いよ」なのかのように。
まずは共通語における意味。昭和の辞書の説明は非常に分かりづらいので、ネット辞書の方での説明を見ると
名詞
①組み立て・構え・構成。「文章の結構を考える」。
②特に善美を尽くして物を作る事。または作られた物。「結構を尽くした邸宅」。
③計画・企て・目論み。
④準備・用意・支度
形容動詞
①素晴らしくて難点がない様。「結構な出来栄え」。
②満足できる状態である様。その状態で十分な様。「お元気そうで結構ですね」。
③それ以上を必要としない様。十分。「もう結構です」。
④気立ての良い様。お人好し。
副詞
十分とは言えないが、ある程度要求に応えている様。「結構おいしい」。
とある。
名詞の「結構」に関しては日常使う事はまずない。従って形容動詞か副詞での使い方に絞って話しを進めることとする。
遠州人としては形容動詞の④及び②の使い方は日常に於いてまずもってしないと思われる。
「思ってた以上に」とか「意外と」という使い方は辞書にはないが遠州ではこういう意味でも使われている。まあこういう意味使いの「けっこう」は遠州に限ったことではなかろうが。
それ以外は使っていてかつそう大きく逸脱した意味使い方をしている訳ではないのだが、ただ使いどころが共通語とはどうも違うらしい。それは特に副詞としての使いどころというものであろうか。形容動詞での褒めた言い回しよりも副詞のまあまあとして使われる事の方が圧倒的に多い傾向にあるということである。
「けっこう頑張ったじゃん」と言った場合。
「結構頑張ったじゃないの」と共通語に訳すのは間違いではない。しかしそのニュアンスが共通語では基準値・予想値を上回ったといった頑張った具合を指す「結構」であろうが
遠州弁では「それなりに頑張ったじゃないの」というニュアンスで「けっこう」が使われるのである。
共通語では形容動詞の②の使い方でお褒めの部類に入る表現であろうが遠州弁においては副詞の使い方であり決して褒めてるという勢いは薄い。
同じように「自分結構頑張ったんだけどなあ」の場合においても。
共通語では最善を尽くしたもしくは力以上のものを発揮したというニュアンスであろうが、遠州弁ではそれなりにもしくは必要以上にというニュアンスと受け取られる。
「けっこういける口なんだろ?」という場合は共通語に於いても「それなりに」という意味使いであろうから独特な意味使いではなかろうが使いどころが共通語と違っているのかもしれない。
遠州人にとっては形容動詞としての「結構」はよそよそしい表現と感じる傾向がある。
それと遠州弁の「けっこう」の使い方としてぼかすというか曖昧に表現したいような場合に使われる事も多い。形容動詞の「結構」ははっきりしたものであるが副詞の「結構」はある程度という曖昧さがあるところを利用しているのであろう。
つまり遠州弁の「けっこう」は「まあまあ」・「それなりに」という意味使いで使われる事が多いということである。特別な意味使いをしている訳ではないのだがどうもニュアンスの取られ方がこちらの意図するものと異なる可能性が高いようだ。
例文
「あとどんくらいで着くよう。」
(後どれくらいで着くんだよ。)
「けっこう歩いたで はあ じきん着くじゃないのけ?」
(大分歩いたからもうじき着くんじゃないのかな。)
「さっきいもそんなことゆってんかった?」
(さっきもそんな事言ってなかったっけ。)
「気のせいだら。」
(気のせいだろ。)
「けっこういい加減だなあやあ。」
(なんか思ってたよりいい加減だなあ。)
「水飲むけえ。」
(水飲むかい。)
「いらんわあ。おめえの口つけたのなんか。」
(結構。君の飲みかけなんざ。)
「けっこう潔癖症だなあやあ。」
(意外と潔癖症なんだな。)
例文音声はこちら
この例文のように「けっこう歩いた」は遠州弁では「それなりに歩いてきたからそろそろいいんじゃない?」というものである。共通語では「十分歩いてきたから着くだろう」というニュアンスになるのだろうか。
「いらんわあ」これを「結構」と訳したように十分とか必要としないと言いたい場合には「けっこう」は使わない傾向にある。「結構」を使っても話しは通じるところであるが「お高くとまって」みたいなえらそうにという意識に陥ることがしばしばある。変と思われるであろうが「結構」というよりも「いらんわあ」という方が角が立たないのである。まあ「いいです」・「いいよ」とかいうのが一番無難なんだろうけど「いらん」・「ことわる」という方が多いのは確かであろう。(正し知り合い同士の場合に限る)