遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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冷ますと言う意味。厳密にいうと冷まさせると言う訳が正しいのだが。
「ちゃんとさまささんもんでそうなるだにい。」(きちんと冷まさせないからそうなるんだよ。)
もちろん「さまささん」(冷まさせない)ではなく「さまさん」(冷まさない)を使うことの方が多いのだが。
これは「見られる」が「見れる」といったら抜きと同じようなものかもしれないとなんとなく思えるところ。
いずれにせよこういう言い方もまだ残っているということで。
例文
「あんたあこれまあちっと置いてさまいたら冷蔵庫入れといて。」
(ねえこれ暫く置いて冷めたら冷蔵庫に入れておいて。)
「ちゃっとさまさいていれちゃかん?」
(直ぐ冷ませて入れちゃ駄目?)
「どうやってえ。」
(どうやってやるの?)
「知らんなんとなく。言いたかっただよお。」
(いやただなんとなく。言ってみただけ。)
例文音声はこちら
「ささる」・「ささって」
レベル 日常レベル
「郵便受けに新聞ささってた。」
これを「郵便受けに新聞くすがってた。」とは言わない。種明かしは「刺さる」ではなく「挿さる」(挿入の挿)だから。
「刺さる」と「くすがる」は同じであるが「挿さる」は別物である。
「刺さる」は共通語だが「挿さる」は辞書にはないので遠州弁ということになるのであろうか。
「挿さる」は「挿し込む」、「挿さってた」で「挿し込んであった」。
近い言葉で「はさげる」・「はさがってた」というのが思い浮かぶがこれとの違いは
「郵便受けに新聞ささってた。」を「はさがる」に置き換えてみると
「郵便受け」に「挿さってた」。何が?「新聞」が。
「郵便受けに新聞はさがってだ。」だと
「新聞」が「はさがってた」。どこに?「郵便受け」に。
といった感じになる勢い辺りが異なることになる。(まあ決めつけるのは無謀だが)
この違いは「刺さる」と「くすがる」の違いと同じようなもんで
「手にとげが刺さった。」を「くすげる」に置き換えると
「手」に「刺さった」。何が?「とげ」が。
「とげ」が「くすがった」。どこに?「手」に。
まあ、強引勝手な屁理屈こねてる次第だが、何が?を言いたいのであれば「ささる」(刺さる・挿さる)を、どこに?を言いたいのであれば「はさがる」・「くすがる」とかを用いる傾向があるように見受けられるところではあろう。
例文
「最近○○さん見かけんやあ。」
「新聞受けに新聞何日か分ささったまんまんなってるでどっか出かけてるだらあ。」
「なんかあっただかいねえ。」
「救急車ん音とかはしんかったで悪い用じゃないらあ。」
「分からんよを。外で倒れたかもしれんじゃん。」
「まあなんしょ悪い事考えるのやめるかあ。考えたって始まらんで。」
「お土産期待してたほうが気が楽でええわなあ。」
「くれにゃくれんで怒れるけどね。」
例文音声はこちら
使い方としては
「そうするとさいにゃ」とか「買い物行くさいにゃ」
とかがある。
「そうするとさいにゃ」を訳すとなると直訳的にだと「そうするとなると」となるように思えるがいまいち分かりにくい。意味的には「そうなるとすると」なのであるのだがなんでそうなるという理屈が説明できない。
例えば「そうするとさいにゃ、とてもじゃないが手におえんにい」
これをニュアンス重視で訳すと「だとしたらとてもじゃないけど手に負えないよ」とするのが分かり易かろう。「だったら」でも可であろうか。
次に「買い物行くさいにゃ」を訳すとなると
この場合の「さい」は「際」(何かが行われる、特定の時点)もしくは「折」であろうが
ニュアンスでいけば「買い物に行く時には」とするのが分かり易い。
といったようにこのふたつの「さい」は別物と思えたりするが
実際使ってる分にはどちらも同じ言葉という感覚である。
まあ「さい」=「場合」とすればしっくりするが。
ちなみに
「行きさいすりゃなんとかなる」
とかいった場合の「さい」は
「行きさえすればどうにかなる」
という「い」が「え」に変じたもので全くの別種であろう。