遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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「やれなかった」と言っている。途中で挫折したとも手をつけることすら出来なかったともどちらとも取れる。
「やりおせなんだ」・「やりきれなんだ」とかなら途中で挫折もしくは手に余ったで「やれなんだ」・「やりいんかった」とかなら手出し出来なかったと取れるのであるが「やりえなんだ」は曖昧である。
漢文調にすれば無茶苦茶だけど「やりえることあたわず」みたいな感じであろうか。
蛇足だがこれが「やりえん」なら「出来ない」とかで「やりいん」なら「やる能力又は意思がない」みたいになるのであるが。ちなみに「やりいなんだ」という言い方は存在しないので「やりえ」というとこが同じなので「出来ない」という意味合いが強いんだろうかな想像だけど。
例文
「ただいまあ。」
「あれえ、早かったじゃん。イベント観い行ったじゃなかったけか。」
(え~?随分と早かったじゃないの。イベントを観に行ったんじゃなかったの?)
「いったにゃあいっただん馬鹿混んでてたもんで諦めて帰って来た。」
(行ったんだけど混んでたから諦めて帰って来た。)
「他になんかしてこんかっただけえ。」
(代わりになんかしてこなかったの?)
「なんか他のこんやるかあって話しいあっちゃんとしただあどこも混んでて結局やりえなんで、ほんでさぶいもんではあ帰るかあっつうこんになっただよを。」
(あっちゃんとなんか他のことでもしようかっていう話しにはなったんだけど、どこも混んでてなにも出来なくてそれに寒くなってきたもんだから帰ろうよっていう事になった。)
例文音声はこちら
「いやらしい・卑猥」という意味。広い地域で使われる表現であろうが「いやらしい」とのニュアンスの使い分けとして遠州では重宝されていると思い記載。男女共用。
遠州弁で「いやらしい」だと「えげつない・図々しい・露骨」とかいう意味で使われる事が多いので「このどスケベがあ」とかいう場合にはこちらの「やらしい」という表現が使われることが多い。もちろん明確な決め事となっているわけではないので人それぞれでありこの説明とは異なり「いやらしい」よりパワーアップした表現として「やらしい」を使う人もいる。つまり「スケベ」・「あつかましい」=「いやらしい」、「ドスケベ」・「えげつない」=「やらしい」みたいな。
でもまあ大方の普段使いとしては「いやらしい」には「卑猥」を込めない使い方が多く「やらしい」には「卑猥」を感じるイメージが強いのでこちらの使い方を説明した。
例文
「歳によってやらしいとこん変わるだいね。若い時分はそれこそモロだけど、ちいと落ち着いてくるとチラリで、ええ歳んなってくると隠いてナンボっつうか。」
「つうこたあいくつんなってもやらしいこんに変わりいないっつうこんかあ。」
「だあの。そういうもんだらあ。まあいやらしい話しだけどな。」
例文音声はこちら
「焼き場」つまり「火葬場」のことを指す。物を燃す焼却場の事を指す事はここいら辺ではしない。そういう所は「焼却場」と言っており「火葬場」とは区別して使っている。地域によっては「ゴミ焼き場」といってるとこもあるそうだがそれでも「焼き場」と区別はしている。
関東から移住してきた人にこの言葉を発したら意味は解かるがそんなの使わないよとのたまわれた。愛知県民の若い衆に同じ事問うたら何それって顔された。辞書を引いてもきっちし載っているので決して方言ではないのだが最早古い表現であって未だに使われているのが珍しいという事であり。その珍しい部類に入るのが遠州だという事になるのであろうか。っていっても世代の問題だろうなきっと。
そのうち普段使いにおいて死語になるだろうから今のうちに書いておこうかと。昭和の頃は普通に「火葬場」の事を「焼き場」と言っていたんだと。
「焼き場」そのものは茶化していいようなところでは決してないのでふざけた例文とかは自粛とします。
よく映画やドラマとかでは煙突から立ち上がる煙を見て形を変えて人が天に召されてく様をイメージするとかいう光景を観たりするけど浜松の「焼き場」ではそういう光景を見るみたいなイメージはないかな。立地条件ということもあるのかもしれないし、経験上では親戚衆の接待応対とかで茫洋としてる暇なぞなかったので見上げてる時間なぞなかったという私の勝手な印象かもしれないけれど。
「随分」・「相当に」などという類の事を言っている。「久方振り」という使い方をする時もある。「時間が掛かる」ということを言いたい場合に使われる表現。
「やっと」の強調形などではなく使い方が異なる。例えば「バスがやっと来た」を「バスんやあ~っと来た」とは言わない。
男女共用。イントネーションに特徴があるのだが説明するのが難しいのでパス。遠州弁の使い手に聞いてくださいな。
例文
「あれえ。やあ~っと見んと思ったら。どっか行ってただ?」
「なに?ゆってったじゃん旅行いかすでねって。」
「そうだっけか。いつゆったあ?」
「なにゆってるよを。出掛けにゆったにい。」
「いつう。」
「先々週の金曜。」
「そん時わしなにしてたあ?」
「しらんよをひとのこんなんかいちいち覚えちゃいんて。」
「ふ~んまあいいわ。で?」
「なによをで?って」
「お土産は?」
「あらすかあ。」
「アラスカ行ったあ。そんじゃなんもないとこだで土産はないだか。しょんねえの。でもアラスカじゃあやあ~っと掛かるだらあ。行って帰っただけけえ。」
「あんたねえボケんのもいい加減にしなよ。」
例文音声はこちら
「やあっと」で言う「随分」とはどのくらいの間の事を指すのかというと
環境や個人差もあろうから一概にはこうだとは言えないとことであるが
「暫く振り」・「ちょっとの間」とかいう時には使われることはないというのは確かであろうか。
「山の住人(民)」ということであるのだが使う上で判断が難しい言葉であるような気がする。
「山家」と書けば「山の中の家・山村」という意味と辞書にある。「山処」と書いて「やまが」と読むこともあるそうな。
「山禍」と書けば「士農工商の身分制度でのどの身分にも属さずに山の中で暮らした一族」といった説明がなされてたりする定住しない流浪の人々といったものか。
「山家」のつもりならなんら心置きなく「あんたやまがの衆けえ」(あなたは山家の人かい?)とか使えるのであるが。
「山禍」だと身分制度に起因する差別用語的要素が濃くなり発するに躊躇することとなる。共通語では「さんが」と読むらしいが私の覚えではここいら辺ではそれを必ずしもではないが「やまが」と読んでいる。これが誤ってこうなったのかどうかは定かではない。
したがってたとえ「山家」のつもりで言っても「山禍」と受け取られかねない行き違いとかもあるだろうし。
話しが脱線するが、「山屋」(やまや)だと登山を悦とする人のことを指す場合もあって「あんたも好きねえ」と小馬鹿にしても問題ないというかむしろ言われて喜ばれるお褒めの言葉となることもある。脱線するけど「登山家」というくらいだからそれをはしょって「山家」とするのが普通だと思えるのだがそれを「屋」とするとはなんででしょうねえ。先に述べた「山家」と読みは違うが書くと同じになるからそれと混同しない為なのか、それとも「屋号」とすることで生業(なりわい)つまり生きがいと称するとかなんでしょうか。
「山師」であれば山に入って猟などの仕事をする人。鉱物を掘り出す作業をする人。使いどころは全く異なるが投機・冒険をする人。とある。
「山持ち」となればおだいさまだよな。
話しを元に戻して、「山家」・「山禍」いずれも方言とかではなく古い共通語なのであろうが、遠州弁は古い言葉を未だに使い続けているという特徴を有しており、昔ながらだと今では思いやりといった配慮に欠ける言葉となるものも時々生き続けてる場合もあって、微妙である訳なのであります。
詰まるところ今の世に置いては使うには適さない言葉というのが無難なのでありましょうや。
実際のところはこういう場合「山の衆」とか「山の出」(出身の出)とかが遠州では一般的に使われていると思われるので死語であろうが。