遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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名古屋や岐阜ではごくごく普通かつ頻繁に文章の頭(「や」は語尾に)付く「せや・ほや・そうや・~や」。
遠州では付かない。
「せや。ほうなってまうでかんだわ。」
(そうだよ。そうなってしまうから駄目なんですわ。)
とでも訳せばいいのだろうか。遠州弁だと
「だよを。だもんでかんだあ。」
とかになろうか。
単純に使わないということもあるが、傾向として「う音便」を多用してる東海に対して遠州弁は「う音便」を多用しないという違いがあり、「う音便」と「や」の組み合わせは相性がいいが「長音化」を多用する遠州弁では「やあ」との相性の方が合うところであり「や」との相性はあまりよくないという部分もあろうかと。
先に「くそ」が付く言い方で「くそたあけ」とか「くそ生意気」とかいう場合での「非常に」という意味使いの「くそ」は遠州弁では皆無ではないがあまり使われない傾向にある。
では代わりに何が使われているのかというと「ばか」であろうか。
「ばかっつら」・「ばか生意気」といった具合に。こういった際「ど」や「がんこ」・「えらい」は使わず「ばか」が多く使われる傾向にある。さすがに「くそったれ」を「ばかったれ」という使い方をするかは微妙だが。
皆無ではないと書いたが、全てが「くそ」→「ばか」となる訳ではないという事と、その他にあまり貶めるような場合に使われないということでもあって
「くそ度胸」とか「くそ頭いい」・「くそ細かい」・「くそまじめ」
といった褒めてはいないが遺憾ながら認めざるを得ないという場合には使われるからである。この場合には「ばか」・「ど」・「えらい」・がんこ」に置き換えることはしている。
ちなみに「まじめ」を例にして比較すると遠州では
「がんこまじめ」は褒め言葉である。
「えらいまじめ」は融通の利かないとかの弊害はあるがそれでも一応認めているという褒め言葉である。
「どまじめ」・「ばかまじめ」は自分には真似できないという領域に達してるといった尊敬の念すら感じる賛美である。
「くそまじめ」は程度を越えてるということで辟易一歩手前で褒めてはいない言葉である。
後につく「くそ」の場合
「やけくそ」・「へたくそ」・「胸くそ」とかいう言い方は上記の限りではない。
「やけばか」とか「へたばか」・「むなばか」などとは言わない。「くそ」は「くそ」である。
「しよまい」より「しまい」。
「しようよ」と言ってる訳であるが、さてどちらがより遠州弁らしいかというお話し。
どちらも平素使われる言い回しであるが、傾向としては「しよまい」には名古屋・三河からの流れを感じるところであり「しまい」・「せまい」の方が独自性が強いように感じられるところである。
少し脱線するが、「まい」そのものが名古屋と共通してる感があり「まいか」とした方がより遠州弁らしくなるのではあるが。
「な。するかあ。そうしまい。」と言うのと
「な。そうしまいか。するらあ。」とでは勧誘の度合いが異なる。
遠州人にとって「まいか」と言われると拒否しづらく「まい」なら断りたい場合には躊躇はなしで拒否できる。
それと「しよまいか」という言い方は無い。
この2点から「まい」は「まいか」の略したものではなく別物という勘繰りが成り立つ。
で、話しを戻して「しよまい」と「しまい」。
ニュアンス的に訳すと
「しよまい」(しようよ)
「しまい」(するかあ)
「よ」が付く事によってニュアンスがどう違ってくるのか。あまり変わらない気がする。
じゃあ「よ」って何?助動詞の「よう」なんだろうな。
辞書引くと、①主体の意思を表す。「もう寝よう」。②相手に対する勧誘を表わす。「さあ、食べよう」。③婉曲な命令や希望を表わす。辺りの意味使いであろうか。
「まい」にもそういった意味合いが含まれてる勢いがあるのであえて「よ」は重複だから省いてもというか省いた方がくどくなくてさっぱりする感じがするけどそう考えるのは遠州人だけなんだろか。
「する」でなく「行く」とすると
「いこまい」
「いかまい」
という違いになるのであろう。こうするときっちし違いが出てくる。「いこまい」は遠州では滅多に使わない言い回しである。
「まい」ではなく駿河の「ざあ」に置き換えてみると
「いこざあ」という言い方は存在しない
「いかざあ」は存在する。
おそらくはやはり「しよまい」は遠州弁的にいうと外来種(名古屋辺りからの)で「しまい」がもともと遠州にあったものなんだろうかなと。意味的に違いはないし使い分けのルールがある訳でもないので共に並び立つという感じで存在してるということなんだろうか。
「ど迫力の映像の作品」という言い方はあるが
「ばか迫力の映像の作品」という言い方はしない。「ばか迫力な映像の作品」はある。
「映像がばか迫力ある」はあるが
「映像がど迫力ある」はない。「映像がど迫力である」はある。
「役者がばか揃ってる」はあるが
「役者がど揃ってる」はない。
「ど」と「ばか」はほぼ同じ意味合いであるがどんな場合でも置き換えられるという完全な互換性がある訳ではない。
別の視点から違いを考えると
「ど根性蛙」はあっても「ばか根性蛙」はない。
「ばか正直」はあっても「ど正直」はある。(日本語変だけど)
同様に「ばか真面目」があって「ど真面目」もある。
もちろんニュアンス的に「ど」と「ばか」は違うものである。上記の例でいえば「ど」は感心で「ばか」は無駄にというニュアンスの違い。これらは正直・真面目といったどちらかといえば褒め言葉に付いた場合の事。
では、けなし言葉に付いた場合はというと
「ばかひどい」・「どひどい」は共にある。
「ばか汚い」・「ど汚い」も共にある。
こういった場合にニュアンスの違いはあるかというと微妙な違いはあるがどんぐりの背比べでそう大した違いはないところである。
したがって遠州弁の素人さんは滅多やたらに「ばか」をつけるのは危険である。けなし表現においては差支えない事が多いが多少なりともいい方向に捉えようとする場合の凄いという表現には「ばか」を使うのは差し控えた方が無難である。
とはいっても「ど」も褒め言葉もどきであっても掛かる言葉によっては同じようなものとなるので「がんこ」・「えらい」がより無難ではあろうが。
例文音声はこちら
初歩的な遠州弁の訳し方として
「だら」は「だろ」
「だに」は「だよ」
こうストレートに訳した方が破綻が出にくくていいのではなかろうか。下手に気取って
「だら」を「でしょう」
「だに」を「です」
とかにしたら語尾を上げて疑問符形にした場合「です?」なんてことになって有り得ない日本語になってしまう。
しかもこれに「だら」の場合「あ」が付いて「だらあ」とした場合
「だらあ」で「だろう」
がスムーズであり「だら」=「でしょう」だと「だらあ」=「でしょうう」となってしまう。
深く突っ込んでくと矛盾が生じてくるので「だら」=「だろ」・「だに」=「だよ」だと言い切る事は正しくはないがとっかかりとしてはこの解釈が一番無難な訳のような気がする。
そうすれば「だらね」を「だろね」と訳せ変化しても対応できる。
女性が「だろ」と言ってるのはというのに抵抗があって「でしょう」としたい気分であろうが「おい」は使ってるでしょうが女性でも。共通語では「おい」は男性言葉で女性が発する事はない言葉となっている。「おい」はいいが「だろ」はちょっとというのは説得力に欠ける。
それと「ら」・「に」を「しょ」・「す」にと直すこと自体は、間違っているわけではないのだが「「だ」を「で」に直すからややこしくなるともいえるわけで「だしょ」・「だす」とすれば共通語ではないが変換という事に関しては違和感は生じない。
深く突っ込むと「だろ」・「だよ」では無理が生じるというのは例えば「だにい」。「決まってるだにい」を「決まっているんだよう」と訳せなくもいないが実際は「決まり事だからね」。「決まってるんだにい」であれば「決まっているんだからね」といった「だよ」ではなく「だからね」という訳になる。なので必ず「だよ」と訳すのが正しいわけではない。
したがって繰り返しになるが細かくは詮索せずとにかくとっかかりとしては「だら」=「だろ」・「だに」=「だよ」としとくのが無難であろうて。