遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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「えごい」という言葉を遠州弁としては聞く事はない。なので近い言葉を想像してしまうのだが。
「えぐい」。「えぐい味」とかでの「えぐい」の変で「えごい」となる表現が遠州弁にあるかというとそれはない。「えぐい」は「えぐい」である。ネット辞書によれば甲州弁で「えぐい」=「えごい」というのがあるが遠州弁はそういうことはないと思われる。(ただし、甲州弁と遠州弁は共通点が多いので遠州は広いから地域によってはもしかしたら使ってるところがあるかもしれないがうちらんとこでは使われていない。)
他に「えご」から連想される遠州弁は「えごえご」であるが
くねっている・軋んでるような様(つまり歪んでる)を遠州弁では「えごえごしてる」と言うのであるが
「えごい」という言い方は存在しない。「えごむ」・「えごく」とかも存在しない。「えご」・「えごみ」とかいうのも無い。「えごえごしい」とかも無い。
「えごえご」のみである。
「曲がりくねった道」なら「えごえごした道」
「床が軋んでる」なら「ゆかんえごえごしてる」
「くねる」で「くねくね」・「軋む」で「きしきし」とかいう連なりで「えごい」で「えごえご」とかいうことではないのである。
とにかく「えごい」という言葉はない。そういう「えごむ」みたいな使い方をしたい場合には「歪む」(ゆがむ・えがむ・いがむ)を使っている。
あと考え付くとしたら方言でもなんでもないけど
「エゴ」の変で「えごい」となったとか?
独善的ということであれば遠州では「どずうずうしい」・「ばか勝手」・「きちがい」などが使われておりかような造語は流通していない。
つまるところやはり遠州弁に「えごい」という言葉は無い。
ネットを徘徊してるとときどき遠州弁五段活用という表現が見受けられる。
私はそういうお勉強の類いの国語は苦手で活用だあ体言だあ形容詞だあ副詞だあとかいわれてもなんのこっちゃいである。
一応記事内に於いてそういう文字は存在しているが、それは辞書等からのもので私の頭から出てくるものではない。
と前置きしたうえで、そういう人間にとって「遠州弁五段活用」というのは皆目見当のつかぬ意味不明な呪文に聞こえる。否定する意図はさらさらなく素直に理解できるように教えて欲しいという願いである。
少し掘ってみるとどうやらいくつか存在していてそのうちのひとつが
*「だら・だに・だもんで・はぁ・やいやい」。
辞書にある「五段活用」の説明とは折り合わない並びである。ちなみにウィキペディアの「五段活用」の説明には、日本語の口語文法における動詞の活用のひとつで、現代仮名遣いにおいて活用語尾が五十音図の「アイウエオ」の五つの段全部にわたって変化することをいう。と書かれてある。
例えば「読む」だと読ま(ない)・読み(たい)・読む(と)・読め・読も(う)という「あいうえお」の変化ということであろうか。
「だら・だに・だもんで・はぁ・やいやい」を共通語に直すと「だろ・だよ・だから・もう・やれやれ」であろうか。
そもそも動詞じゃないじゃないかってところが味噌(鍵)なんだろうかな。つまり辞書等にある五段活用とは全くの別物ということなんだろうか。じゃあなんだ?と推測してみる。
活用ってのは「活きて」(頻繁に)「用いる」(使われる)という意味だとすると少しはなるほどではあるかな。
でも五段については例えば「だら」は「だら・だり・だる・だれ・だろ」もしくは「だら・ぢら・づら・でら・どら」とかに変化することはない。つまるところ何が五段なのか意味不明。
「ばか」→「どばか」→「がんこばか」→「どがんこばか」→「えらいがんこどばか」みたく五段階に加速してく馬鹿さ加減の変化とかのようなものでも「だら・だに・だもんで・はぁ・やいやい」はないものな。
納得できるとしたら「五段」じゃなくて「五種」もしくは「五大」だよな。ということは「五大活用」というのがどういういきさつかで「五段活用」へと変化したということなのか。
他の方言でこういった何々弁五段活用と呼称されるものがあるのかとネットで調べたけど遠州弁以外そうそう出てこない。こうなったらもう言い出しっぺさんに真意を問うしかなさそうだが誰なんだろう。
ちなみに自分は遠州弁の特徴を端的に表わす標語みたいな感覚で(ころころ変わってるが)最近は女性ことばなら「だら・だに・だもんで・だで・ほい・おい」男ことばなら「だら・だに・だもんで・だで・おい・やあ」とかにしているのだがあくまで標語である。
「標語」という言い方を置き換えるとしたら「繁用」で「遠州弁五種繁用語」もしくは「遠州弁五大繁用語」とかになるかな。固いから普及はしないだろうけど。
それはともかくとしてとにかく「五段活用」をなにかに掛けたひねり言葉であるような気もするところでその心はというのを知りたいものだ。
その他には
*サ行五段活用い音便
これは細かい説明は省くがサ行五段活用動詞が「燃やした」→「燃やいた」とか「返した」→「かやした」→「かやいた」とかに変化する傾向が遠州弁は顕著だというものらしい。
これがはしょられて遠州弁五段活用と呼ばれるようになったとしたら、なるほどではあるか。
「休ませていただきます」これが正しい共通語なのだそうな
「休まさせていただきます」これは一見丁寧な物の言い方に聞こえるのであるが
五段活用動詞の後に「させていただく」とするのを「さ入れ言葉」といって昔的にはよろしくない言い方なんだそうな。しかしてこれは新たな表現で間違った使い方ではないそうな。つまり間違いじゃないけれど違和感・ざらつきを感じる人も多いということらしい。
私としてはなんの違和感も感じない。というのも
遠州弁だと「かす」が入る表現
「休まかしてもうらうでねえ」・「休まかいてもらうにい」・「休まかさいてもらうにい」・「わりいが休まかすでねえ」
とかいった「かす」が入る表現と
「休まさしてもらうでねえ」・「休まさいてもらうにい」・「休まさせてもらうにい」
といった「さす」が入る表現というのがあるから、共通語は「さ入れ」かもしれないが遠州弁は「かす・さす入れ」が昔っからある。(昔とはいつかと詰め寄られると答えに窮するが)。
「かす」・「さす」を入れないと
「休ましてもらうでねえ」で「お先に」もしくは「休むからね」と宣言してるような勢いで断りを述べている(伺いを立てている)要素はない。
こういう使い分けをしているので、おそらくは遠州人は誰も「さ入れ言葉」に違和感を感じる人がいないだろうなと思える。
他の言葉で「仲間に入れて」というのを遠州弁では「まぜて」というのであるが
「まざいて」(まざせて)、多少ニュアンスは変わるが「まぜかして」・「まぜかいて」とかいう言い方もある。つまり繰り返しになるが「さ」に限らないのだがなにかが入るのは遠州弁ではごくごく普通なのである。
「言う」を「いう」というか「ゆう」というか。書くに於いて「ゆう」と書くのは流石におかしいということになるが声に出すとなるとはたしてどうなんだろうと。
遠州に於いては大勢は「ゆう」と発しているであろう。感覚的には「いう」は書き言葉の世界のものであって話し言葉ではないという意識があるような気がする。まあそうは言っても「いう」も発しているのであくまで傾向としてであるが。
「そんなことゆったって」
「なんちゅうことゆうだあ」
「よくゆうわ」
「そうゆうもんだ」
とかは「いう」だとざらつき感が大分湧くな。特に「そういうもんだ」だと「ういう」なんて発音しづらい事この上なし。
こういうのって東が「いう」で西が「ゆう」とかいう風に分かれるという訳でもないだろうな。関西だと「なにゆうてまんねん」とかで頻繁だろうし関東でも「なんちゅうこと」(なんとゆうこと)とか「っちゅうふうに」(というふうに)と発している訳だからして東と西で分かれるということではないのだろう。
「言うなれば」を「いうなれば」と書きはすれど声として発する際は「ゆうなれば」となるのが普通に感じられるのは方言性なのか。
しかしてこれが「そうは言っても」となると「そうはいっても」と発するのだからあら不思議。故に遠州は人それぞれであって、場所や都合で使い分けているわけではなくなおかつどちらかを主にして使っているという地域でもないということであろうか。まあ「ゆう」表現の方が多めではあろうが。
ちなみに、個人的には「言えば言え」だと「いえばいえ」と普通は発するが「言はば言え」だと「ゆわばゆえ」か「ゆわばいえ」と発したくなるよな。
万葉集の歌で
思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神そ知らさむ
この場合「いわば」というより「ゆわば」の方がゆかしい気分になるのは自分だけか。もちろん昔の人が「言ふ」をどう発していたのかは知らないが。
「そういうものだ」を「さういふものだ」と昔の仮名遣いは書いた。だからなんだという話しであるが、こういう場合は「そうゆうものだ」とおそらく普通は発するだろうな。
つまり「いう」よりも「ゆう」という表現の方が格調が高いという認識があるのかもしれないところである。あくまで個人的にそう思えるということである。
「ら」抜き言葉が遠州弁の特徴。であるとともに「れ」足す言葉も遠州弁の特徴。ってか?
最初聞いた時「レタス言葉」?と聞き違えたというお約束のギャグはさておき。
「聞けれる」・「読めれる」・「行けれない」・「書けれたら」とかがそうだそうな。
しかしそういうのはごく普通であって遠州弁だと
「聞けれれる」・「読めれれる」・「「行けれれん」・「書けれれたら」とかが存在する。
「れ」と「れれ」ではどう違うんだというと
「行けれれたら」を挙げると
「行けれれたら行くけど忙しいで行けれるか分からんやあ。」
(行けるようなら行くけど忙しいから行けるよとははっきりとは言えないなあ。)
断りのニュアンスではなく可能なら行くという勢いである。
「れれ」を使うと「~することが可能」・「~することが出来る」といったニュアンスになる。これを
「行けれたら行くけど忙しいで行けれるか分からんやあ。」とすると
(行けたら行くけど忙しいから行けるとは言えないなあ。)
と、こちらはほぼ「行けない」とお断りをしてる勢いとなる。
ちなみに「行けれるか分からんやあ」の「行けれるか」を「行けるか」とした場合、大抵は「行けるかどうか」という言い回しになり「行けるかどうか分からんやあ」となる。
とまあこのような使い分けが存在している。「れ」足す言葉は遠州に限ったことじゃなく特徴と謳うには疑問が残るが「れれ」足す言葉なら地域性が出そうに思える。
「れられ」のら抜きと考えることもできようか。
「行けれられたら」→「行けれれたら」。共通語だと「行けるのなら」。
「れ」足す言葉は遠州弁の特徴ではなく、「れれ」足す言葉は遠州弁の特徴というのが相応しい気がするところである。