遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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遠州弁関連
れれ足す言葉の説明 その2
個人的意見(半分冗談)
「見ん」(見ない)。これは「ない」が撥音便化して「ん」になったものであろう。
「れ」単発で、「見れん」(見れない)は「ら」抜き言葉だと言われるが、「見れぬ」の「ぬ」が撥音便化したものであろうという屁理屈が成り立つ。「ぬ」=「ない」=「ず」
「れ」連発で、「見れれん」(見られない)は「見られられぬ」→「見れ」+「られぬ」→「ら」抜きで「見れれぬ」→撥音便化して「見れれん」という邪推が成り立つ。
「れ」三連発で、「見れれれん」(見る事が出来ない)については、「見れ」+「られ」+「れぬ」→ら抜きと撥音便化で「見れれれん」と勘繰れるところである。
いづれもどこぞのとこの根拠に則って述べている訳では無いので、邪推・勘繰りと記しているが、屁理屈的には合ってそうに思えるのは気のせいか?
では調子こいて
「れ」四連発で、「見れれれれん」という言い方は有るかというと、実際こんなめんどくさい言い方する事は無いのだが、空想上では「見れ」+「られ」+「れぬ」→「ら」抜きしないで「ら」が「れ」に化けて「見れ」+「れれ」+「れぬ」→「見れれれれん」となっても不思議ではない。
もっと図に乗って
「れ」五連発で、「見れれれれれん」はどうかというと、妄想上は「ら」抜き無しでの「見られ」+「られ」+「れぬ」→「ら」が「れ」に化けて「見れれ」+「れれ」+「れぬ」→「見れれれれれん」となってもへ~という感じであろうか。当たり前だがこんな言い回しは現実には存在しない。
よりぶっ飛んで
「れ」六連発で、「見れれれれれれん」はどうかというと「見られ」+「られ」+「られぬ」の全部の「ら」が「れ」へと化けて「見れれ」+「れれ」+「れれぬ」→「見れれれれれれん」でどうだ。当然だがこんな言い回しは無い。
「れ」七連発で、「見れれれれれれれん」はというと・・・流石に屁理屈が浮かばない。
まあ非現実的な空想(冗談)話しであるが、このように下手に「ら」を入れた状態のものを基本と考えるとこうもややこしくなるわけで、遠州弁は基本からして「ら」抜きなんだろうなと思える。
遠州弁関連
遠州では伝わらない言葉「ぼっけえ」(岡山弁)
もしくは曲解される
レベル 個人的感想及び息抜きネタ
遠州で「ぼっけえ」と発すると「ぼけ」もしくは「ぼろい」という意と判断される。
「ぼけ」というのは「ぶた」を「ぶったあ」とか「餅」を「もっちい」とかいう癖の一種だと思われてしまうところである。
「ぼろい」については「ぼっこい」が変形して「ぼっけえ」や「ぼっこぉ」となるものである。
で、実際の「ぼっけえ」は岡山弁で「大層と」か「とても」とかいう意味のものだそうな。
そういう意味使いでは遠州弁は「ばか」・「ど」・「がんこ」・「えらい」など事欠かないので出番は無いのである。
遠州で使われるとしたら
「やあ、このぼっけえ。なにしょろしょろやってるだあ。」
(おいこのボケ野郎。何をちんたらやっているんだ。)
「やあなんだよ。ばかぼっけえじゃんかあ。なんでこんなやごいだあ。」
(え~?なんだよ。物凄くぼろいじゃないかあ。どうしてこんなに脆いんだ?)
とかいったものであり、ウィキにあった岡山弁の使い方例
「蜂ぃ刺されてぼっけえ腫れた」
は遠州では「蜂に刺されてボケのように腫れた」とかに聞こえるものであろう。なにしろ「馬鹿腫れた」という言い方が遠州には存在するからして、「馬鹿」があるから「あほ」も同じ解釈でと考えてこの場合「馬鹿みたく腫れた」(馬鹿みたいに腫れた)=「ぼっけえ腫れた」と納得しようとするからである。まあ結果当たらずと言えども遠からずにはなるか。
ちなみに「ぼっけえ」の他に「ぼっこお」とも言うのだそうだが、「ぼっこお」でも「ぼろい」と云う意の「ぼっこい」と勘違いするだろうな。
あくまで個人的印象だが、テレビとかで聞こえてくる限りに於いては広島や島根とかとは結構同じ匂いを感じるが鳥取や岡山とかとはそういう感覚にならない方言という気がしてくる。
遠州弁関連
「ど」。「どでかい」の「ど」
個人的意見
「ばか」は確かに遠州弁だろうなとは思うが「ど」は必ずしも遠州弁じゃあないだろうと思い始めた今日この頃。
例えば「どっちらけ」・「どでかい」・「ど真ん中」・「ど根性」。
これらは共通語の中の俗語という範囲であって、遠州弁という方言の枠ではない。
漢字に表わすにしても「度」(たまに弩)があてはまる表現である。意は「度を超えて」・「度が過ぎて」というものであろう。
じゃあなぜ「ど」は遠州弁だと言われるようになったんだろ。というよりどれが遠州弁と呼ばれる「ど」の使い方なんだろう。
「どあつい」・「どさむい」・「どひどい」・「どせまい」とかは遠州弁と言われているみたいだ。
「ど痛い」・「ど太い」(どぶとい)とかは微妙だよな。
微妙といえば
「どうまい」は共通語で「どんまい」が遠州弁ってことなら納得ではあるな。
「どぎつい」は共通語で「どんぎつい」が遠州弁ってことなら納得だよな。
(この上の例ふたつは「ど」でも「どん」でもどっちとも駆使するもので遠州ではどっちかしか使わないというものではない。使い分けについては「ど」より「どん」とした方がより「度を越えてる」感を醸し出すものである。どの言葉にも「ど」と「どん」の二種類が当てはまる訳では無い。)
じゃあ視点を変えて遠州では使わない「ど」の使い方というのがあるかと考えると
思い当たるのは以前コマーシャルで「どストライク」というフレーズを駆使したものがあったが、個人的にはひどく違和感を覚えるものであった。「どストレート」や「ど直球」とかならざらつき感は無いのだが。「くそボール」を「どボール」というのも違和感あるよなあ。
耳にした事は無いが、サーキットとかの凄い曲がり方なカーブのコーナーとかを「どカーブのコーナー」と発しても多分同じようにざらつきを感じるだろうなと思える。
こういったざらつきを覚える「ど」の使い方が遠州弁ではない共通語の「ど」ということになるんだろうかな。その違いの根拠(傾向)付けはさっぱり分からないが。
屁理屈こねて動詞の場合での未然形だあ連用形だあとかで使う使わないという遠州弁独特の掟が存在するのかと考えてみると
例として「はまる」(入れ込む・夢中)を挙げてみる。
「どはまり」だと「こないだ行ってそれからずうっとどはまりやあ。参っちゃってえ。」(この間行ってからというもの超夢中になっちゃって困ったもんだよ。)とかいう使い方が存在する。
「どはまる」だと「行ったら絶対どはまるって。だで、いっぺん行ってみい。」とか使うよな。
「どはまれ」だと若干形状を変えはするが「懲りにゃ分からんだではまるだけどはまりゃいいだあ。」(懲りなければ分からないんだからはまるだけはまればいいんだ。)。
「なんしょどはまらんとこの良さが分からんって。」・「なんしょどはまってみんとこの良さが分からんって。」・「どはまろうとなんかするもんでえ。適当なとこで切り上げんと。」
次に名詞だあ動詞だあで使う使わないというのを考えてみると
ど近眼・ど眠い・ど動く
など名詞だあ形容詞だあ動詞だあと付くわなあ。
とまあ多少強引ではあるがこんな感じで大抵使うわなあ。屁理屈に則って使う使わないの区別をするのは無理っぽく思える。
まとめにもなんにもならないけど、言える事を揃えてみると
大抵のものに「ど」を付けるが、なんでもかんでもに「ど」が付く訳ではない。
共通語と遠州弁の境界線がよく分からない。
ということで、「ど」は限りなく共通語に近い遠州弁ということになるのであろうか。ただし「ど」をつけるルールが共通語と遠州弁では違いがあるようだ。それがなんなのかはまだ掴めていないので今後の課題としよう。
ところで最近名古屋・関西方面(もしくはテレビ経由)より流入してきたであろう「めちゃ」・「めっちゃ」が今後遠州でも定着するようになったら「ど」はどうなるのかな。「ど」の前に「ばか」が薄くなるか。
遠州弁関連
「おや」と「よや」
遠州弁的にはあるかもしれない言い回しというお話し。
レベル 根拠なき個人的意見
例えば「見おや」と「見よや」。
「見よや人々美しきこの天然の云々」という「美しき天然」の歌詞にあるように「よや」はれっきとした共通語の使い方である。
じゃあ次に「見おや」という言い方で共通語の一節として提示できるものがあるかというと見つからない。
ということは「見おや」という言い方は存在しなくて「見よや」もしくは「見ろや」の言い間違いではないのかという考えに至ったりもするのだが、遠州弁においては確かに有ると感じる言い回しなのである。
「見よや」は美しき天然の歌詞の意味は「はいみなさん注目!」という注視を求める勢いのものであるが「ちゃんと見よや。」とかいった使い方の場合には注意を喚起してる勢いのものである。
「見おや」は「ちゃんと見ろよ」といった「おいおいしっかりしてくれよ」と注意を促す勢いのものとして遠州では存在している風に感じられるところである。
「見ろや」は共通語であるから説明不要であろうが、注意するといったもので促すという勢いは薄れるが意味使いとしては「見おや」に近いものである。
「なにやってるだあ。ちゃんと見よや。」
「なにやってるだあ。ちゃんと見おや。」
「なにやってるだあ。ちゃんと見ろや。」
この違いは「見よや」の方は「なにやってるんだまったく。ちゃんと見ろよな。」といった指示・指摘といった勢いのものであり
「見おや」の方は「なにやってんだ!ちゃんと見ないと駄目だろう。」といった叱咤のニュアンスが増す勢いとなる。
「見ろや」は共通語であるが遠州弁的には「なにやってるんだ。ちゃんと見ろよな。」といった叱責のニュアンスが増す勢いとなる。
実用的にいうと「見よや」は命令口調で「見ろよ」はつっけんどん(冷たい)印象を与えるもので、「見おや」はその中間(もしくは緩めた)といった印象を与えて使い勝手がいいとことがある。
「見る」以外にも使われるもので、「する」の場合は
「ぶつくさこいてんでちゃっちゃとしよやあ。」
「ぶちぶちゆってんでちゃっちゃとしおやあ。」
「しよや」の方だと「ぶつぶつ言ってないで早くしろよ。」
「しおや」の方だと「ぶつぶつ言ってないで早くしろよな。」
こちらの場合は「しよや」とした方が命令口調に近くなり「しおや」とした方は「いい加減にしろよな」という苛立ち加減が増した勢いとなる。
どれも言われて気分のいいものではないが、「しよや」の方が上から目線度合いが強いと思える。ためという立場であったなら「しよや」よりも「しおや」を使った方が多少なりともムッとされにくいという側面も覗われる。
実際のところは「お」ではなく「よ」(もしくは「ろ」)といってるのだがイントネーションの関係で「お」に聞こえるだけという架空のものかもしれないが、そうはいってもこういう違いは感じられるものである。
なお、「見よ」・「見ろ」という「や」の無い言い方で「見お」というのがあるかというとそれは無い。