遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
以前記事にした「たげた」の変化バージョン。広範囲で使われる言い回しだろうけど遠州でも使うよということで記載。
「たげない」(~してあげなよ・~してあげなさい)
「やってあげなよ」だと「やったげない」という風になる。
「~してあげないのか」という場合には「だげんだか」・「たげんだけ」と「ない」が撥音便化することがある。もちろん「たげないだか」・「たげないのか」という言い方も存在する。
例文
「ほら、重そうに荷物持ってるじゃん。ちっと持ったげない。」
(ほらあ重そうに荷物持ってるじゃないの。ちょっと持つの手伝ってあげなさいよ。)
「え~腰おやしそうでやだよ。」
(え~腰壊しそうでいやだ。)
「若いだになにじじくさいことゆってるよを。」
(若いのに何を年寄りじみた言い訳してんのよ。)
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共通語の使い方の「~してあげない」という意味使いの
「頭来たで、やったげないよ~だ」
みたいな使い方もするところである。特に混乱してどっちの意味なのか分からなくなるという事はない。
「そりゃ買うだなあ」
別に遠州弁でもなんでもないだろうけど、共通語だと「それは買いだなあ」となるのであろうか。前に付く動詞の活用形が共通語と異なるというのに地域性があるのかも。
訳すと「そりゃあ買いだよなあ」になるのであろうか。ニュアンスを訳しにくい言葉である。「買った方がいいと思うよ」という方が近いのか?
「そりゃ買うだあれ」
だと「そりゃ買いに決まってるだろ」となるのであるが、この言い回しよりも「だなあ」は諭す感が強い。別の言い方だと「買うべし」=「買うだあれ」で「買うべきかと」=「買うだなあ」という感じか。
諭すと書くと聞こえはいいが、どうせ自分のいことじゃないからといった他人事という薄情さも篭もる事も多々ある。聞き手が弱ってる際に「だなあ」を発すると薄情と思われかねないところである。
「だなあ」は男言葉である。女性言葉は「だねえ」であろうか。
例文
「困ったやあ。どうすりゃあいいよを。」
「そりゃやるだなあ。それしかありもしん。」
「やるにしたって何から手えつけていいだか見当もつかん。」
「そりゃ気づいたとこからするだなあ。」
「なんか物言い冷たいじゃん。人のこんだでどうでもいいと思ってへんけ?」
「やっぱそういうのは伝わるだなあ。」
「はあいい。」
(もういい。)
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「どうせるだ?買うだ?買わんだ?」
この訳は「どうするの?買うの?買わないの?」となる。これが
「どうせるだ。買うだ買わんだあ うだうだと」
となるとその訳は「どうするんだ。買うだの買わないだのと決めあぐねて」とかいった風になる。
辞書を引くと
「だ」{助動詞・特殊型}その事柄を肯定出来るものと認める主体の判断を表わす。
という「だ」を疑問形にすることによって決意・決断を問うているという意味合いで使われる。従って訳すとしたら「のか」とするのが近いところであるし疑問の形であるなら「の?」とするのがはまるところ。「か?」としてもよいのだがはまる場合とはまらない場合がある。
これが遠州独特なのかどうかは定かではないが遠州ではよく使われることは確かである。
まあ疑問形としない「だ」にしても「のだ」・「だの」という風に訳さないと文章が繋がらない事も多いので遠州で使われている「だ」はこういったものの省略形であって必ずしも辞書にある「だ」と同じとは言い切れないところもあるが。
根拠無視でいえば「だ」=「の」としてしまえば楽ではある。
「だか」にしても「のか」で説明できるし。
例文
「やっべえ。忘れ物しちゃってえ。」
「どうするだ?取り帰るだ?」
(どうすんだよ。取りに戻るのかよ。)
「どうせすかやあ。まあ戻るのめんどっちいでいいや。」
「でもどうするよを。無しじゃいれんら。」
「貸して?」
(貸してくれるよね?)
「いやいやあ。」
(冗談じゃない。)
注、「いやいやあ」は共通語の「いやいやご謙遜を」とかいう「いやいや」とは全くの別物。
「教えたらあ」で「教えてやるわ」・「教えてあげる」。
「教えたげる」も「教えてあげる」。でもこっちの方が「たらあ」よりも横柄では無い印象を与える。
「教えちゃる」・「教えたる」で「教えてやる」。
といったパターンがある訳であるが、その中の「たらあ」。江戸っ子風味の「してやらあ」(してやらあ・ってやらあ)というニュアンスとほぼ近い。遠州弁と言う程でもない広い地域で使われる言い回しであろうが、遠州でも使うよという事で記載。
「喰ったらあ」で説明(分解)すると「喰って」+「あげて」+「やらあ」(やるわ)の「てやらあ」が変化して「たらあ」となったものと邪推するものである。「たろう」という邪推も成り立つか。
「だら」(だろ)・「だらあ」(だろう)に連なる「らあ」(ろう)という解釈で「てやらあ」=「てやろう」という説明も出来そう。
「よ~しみてろよ、やったらあ」といった「やってやるぞ」といった決意表明のようなものではない。
「あ~いいよ、やったらあ」といった軽い感じのものである。とともにあくまで「やってあげる」である。
話しが飛ぶが「やったらあ?」となるとその意は「やっただろ?忘れたのかよおい」といったものになる。こちらは「たらあ」ではなく「た」+「らあ?」の組み合わせというもので微妙に別物である。
しかして書き文字として例えば「わし教えたらあ」だと「俺が教えてあげる」とも「俺が教えたろうに」ともどっちもとも取れてしまう。耳で聞くに於いてはイントネーションが違うので聞き違えることはない。「教えてあげる」なら「おしえたらあ」を平坦に発し、「教えただろう」なら「おしえた」の「た」と「らあ」の「ら」を強く言う。「らあ」の「あ」を強く言うと文章の意味は「教えたのになんで忘れてんだよ」といったものになる。
まとめると「たらあ」は「したらあ」を例にすると
「してやろう」・「しだだろう」・「しただろうに」・「したじゃないか」
といった意味使いがあり、それらはイントネーションがそれぞれ異なるものである。
「たたる」。漢字にすると「建たる」。「立つ」や「絶つ」で「立たる」・「絶たる」というかは微妙。決して「祟る」とかいうものではない。
イントネーションは頭高ではなく「たる」の「た」を強く言うものである。
そして正直そのニュアンスをうまく説明出来ない言い回しである。
「家が建たった。」(家が建てられた。)、「そんな金ありゃ家一軒建たるわ。」(そんなお金があったら家が一軒建つわっ。)とかいった使い方をするものである。
「建たりたる」・「建たりて」とかなんてしたら古文っぽい感じがするところで、「り」が促音便化して「っ」になっての「たたった」・「たたって」というものになったのだとしたら、方言というより昔ながらの言い方と勘繰れなくもない。
「たたった」は「建てた」というニュアンスのものであるならば「たたりた」の変と言った妄想がはたらく。
そういう意味では「建たった」を「建った」と訳すとなんかニュアンスが伝わっていない気がしないでもない。
「たつ」という言い方は「雨戸をたつ」(雨戸を閉める)を思い起こさせるものでありもする。
「あそこんさあ知らん間に家ん建たっとった。」
出来てたというか建てられていた。
「あそこんさあ知らん間に家ん建ってた。」
存在してたというか建っていた。
といった違いが感じられる。
「たたった」は「建てられた」とするのが適当と思えるが、的確な共通語が思い浮かばないそのニュアンスを訳すに難しい言葉である。
「たたる」で「建てられる」
「たたす」で「建てようとする」
「たたした」で「建てたせた」(この場合「たたいた」とはならない。)