遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
あくまで個人的意見です。
日本語の乱れのひとつと言われている「ら」抜き言葉。最近のニュースでも伝えられていた。
しかしながら遠州弁は「ら」抜き上等どころか「てにをは」すら省くことが可能なものは省く方言なのである。そういう意味では時代は遠州弁に近づいたということにもなる訳であるが。憂いてる人達から見れば遠州弁は悪の根源ということになるのだろうか。
例えば
「昨日はとても楽しかったです。お父さんとお母さんと妹とぼくの家族4人皆で動物園に行ってきました。妹は虎やライオンを怖がってたけどぼくは色んな動物が見られて本当に楽しい一日でした。」
これを遠州弁に近づける第一歩として先ず抜けるものを抜く。
「昨日とても楽しかったです。お父さんお母さん妹ボク4人家族皆で動物園行ってきました。妹は虎やライオン怖がったけどボクは色んな動物見れて本当楽しい一日でした。」
次に言葉を変える
「きんのうがんこ楽しかったやあ。おっとさおっかさ妹わし4人うちん衆みなして動物園行っただよを。妹虎ぁライオンときゃひゃあひゃあゆっとたけがわし色んなのたんと見れてがんこ楽しかっただにい。」
そして順序を入れ替えしさらに言葉を変えて全体を整える
「がんこきんのう楽しかったやあ。うちん衆らと動物園行ってさあ おっとさおっかさ妹らとみなしてえ。妹虎ぁライオンだかにゃあひゃあひゃあこうるさかったけが、なんしょこらしょと色んなの見たもんでホントがんこ楽しかっただにい。」
最後に自分が話すとしたらという形に変えてみる
「や、きんのうがんこ楽しかったやあ。動物園うちん衆らと行ってさあ。いもうたぁ虎とかライオンでひゃあひゃあこいとっただん、わしい馬鹿一杯色んなの見れたもんでホント楽しかっただよを。」
(あくまで作為的な一例であり使い手によって形態は異なるのであるが)
というようにまるさら失くすというのは無理にしてもかなり省くと共に入れ替えもかなりする。こうなるから日本語ぶち壊しといわれるのかな。でも
「昨日真にもって快なる日たり。父母妹自分4人家族うち揃いて動物園観覧す。妹虎及び獅子に驚愕するも我れ多種の動物見物致し至極満喫したり。」
とかの言葉堅くしたもの(知識がないので滅茶苦茶だけど)には近いんだから別にいいじゃんという気になるのは言い訳か?
話しは変わるが、文法やらなんやらの小難しい事は知らんし書き言葉を話し言葉に変える事自体ふざけた事だが、なんしょ違うだよ。だもんでいっちゃあなんだが方言だっつってそういう単語ばっか羅列して説明したってしゃべれやせんだいねホントは。
まあとにかく、根っ子の部分からして共通語の言い回しと遠州弁の言い回しは違うということですわ。それにイントネーションも当然違ってこれは聞かないと分からないから、いつか音声つけて説明するブログにしてみたいところでありますがなにせ知識がないんで夢のまた夢でありますが。
本人はいたく切羽詰まって「でれれん でれれん よを」と連呼して助けを求めていたとしても口で太鼓のまねとかでもしてるのかと勘違いされてしまいかねない「でれれん」という表現。普通に共通語だと思っていたが理屈で考えると遠州弁っぽい。
「でれれん」とは「出る事が出来ない」つまり「でられられない」ということであるが。
遠州弁の必殺技「ら」抜きの2連発と「ない」が「ん」に変わることによって「でれれん」となる。という理屈が成り立つ。つまりこれは遠州弁か。
「でえれん」もその意味は同じであるがこちらは「出られない」の変化したものであろうと思われる。「でれん」という言い方ももちろん存在する。
緊急性というか切羽詰まった感は「でれれん」の方が強く「でえれん」の方が冷静さがある。それと「でえれん」は「出れる状況にない」というニュアンスも含むことになる。意味が同じということでは「でれれん」=「でれん」=「でえれん」だが「でれれん」と「でえれん」は必ずしもイコールではない。
では「出られられる」はどうなるかというと「でれれる」となり「出られる」は「でえれる・でれる」となる。
これに「だろう」をつけて「出られられるだろう」を直すと、「だろう」は「らあ」または「らろ」と遠州弁では変わるので
「でれれるらあ」・「でれれるらろ」
ら行が続くので全部ら行で成立するか冗談で試してみる。「変なガス吸って頭がラリった」の「ラリる」。これを「出る」と替えてみると
「ラリれれるらろ」(ラリることが出来るだろう)
というのが成立し、やってやれないことはないということになる。でもまあこうなると「ら」を抜かずに
「ラリられられるらろ」とする方がよりややこしくはなるが何故かしっくりこない。そりゃそうだな方言でもなければ共通語でもない宙ぶらりんだから。
言葉遊びをもうひとつ。語呂で遊べば
「でででんとでててでれれんもんはでれんでげれんでんまわった」
(デデデンと出ていて出られられないものは 出られないので ゲレンデの方に周った)
「デデデンと出てて出れんもんは 出れんで ゲレンデん 周った」
例文
「こりちゃったやあ。出口がんこ狭くてでれれやせんくて往生こいたわ。」
(懲りちゃったよ。出口が凄く狭くて出れなくて大変だったよ。)
「それでどうしたよを。」
(それでどうしたの?)
「しょんないもんで、でれれんでれれんっつって大声だいて助け呼んだだよ。」
(仕方がないから出れないよ~って大声出して助けを呼んだのさ。)
「そりゃやっぱ自分デブってるもんだで出えれんかっただらあなあ。」
(それは多分あんたが太ってるものだから出れなかったんだろうなきっと。)
「失礼こいちゃうやあ。じべたに置けれん荷物がんこ持ってたもんでだよ。」
(失礼な事言うじゃないか。地面に置けれない荷物を一杯持ってたからだよ。)
「寝れない」という意味では同じ言葉であるが遠州弁でのニュアンスはそれぞれ異なる。もちろん厳密な使い分けというのではなく、共通語としての「寝れん」は万能に使える表現なので使い分けのルールは非常に曖昧なものであるが。以下は個人的な考えによるものであることを付け加えておきます。
尚、「ねえる・ねえった」の記事は「寝入る」の訛った表現として説明しておりこの記事の説明とは言葉が違うものであると言い訳をしておきます。
「ねれん」
眠れない・寝付けない
「うるさくて寝れやへん」
「ねえれん」
寝ることが出来ない・床に付けない
「忙しくて寝えれやせん」・「寝えってる暇んない」
では、「うるさくて寝えれやせん」と言った場合
布団に入る前からうるさいということになる。
「うるさくて寝れやせん」は
眠ろうとしたらうるさいのが気になりだしたということを意味する。
つまり「ねえる・ねえれん」という言い方は「ねえいく」(寝に行く)という言い方のように睡眠そのものを指すのではなく寝るという行為を指すものであるということ。細かく補足的に訳せば「ねえれん」は「寝れる状態じゃない・寝てる場合じゃない」とかいう意味合いで使われるということ。
「寝る・寝れん」は遠州弁ということでは睡眠を指す言い回しが主体であろう。
「よう寝た」は熟睡したということであり、「よう寝えれた」だと寝るのにいい環境だったというニュアンスになる。「眠った」でいえば「眠った」と「眠れた」の違いみたいなもんか。
では「でれれん云々」の記事で説明した理屈で「ねれれん」という言い方は在るかというと、それは存在する。「ねれれん」の意味合いは「ねれん」と同じであり「でれれん」と「でえれん」のニュアンスの違いもこれと同じであろう。
例文
「ここんとこ残業続きで疲れたらあ。今日はちゃっと帰って休みない。」
「それがのっ。あんねえガキ連れて帰って来てけつかるもんで どうるさくて寝えれやせんだよ。」
(それがさあ。姉貴の奴が子供連れて帰って来てるもんだから騒々しくて寝れないんだよね。)
「そりゃしんどいこんだの。でも横んなるだけでもちったあ違うだで寝れんくても寝えった方んいいにい。」
「今日は良い天気で絶好のお出かけ日和だら」
間違ってはいないがえらく中途半端であり
「今日良いい天気だで外ん出るにゃ最高だにい」
くらいにはしてもらわないとすっきりしない。もちろん
「いい天気じゃん。あんた今日そと出てかんでいつ出るよを」
ぐらいまで逝ってくれればもう原住民扱いになるのだが。
たとえ原住民の人でもピンとこない言い回しと感じることがある。遠州弁と言っても各集落によって随分と異なるものであり私がしてることは自分とこの集落の言い回しを押し付けているようなものなんだけど。
「そんなに ぬくとめなくても いいにい」
(そんなにあたためなくてもいいよ)
私だったら
「そんな ぬくとめんでも いいにい」
もっとぐでぐでにするなら
「んな大層にぬくとめんくたっていいでねえ」
とする。他の例では
「まあ、そうだけど、左側に落ちんくてなによりだったな。あっちは民家があるでね。」
私だったら
「まあそうだけえが ひだりっかあに落ちなんでなによりだったやあ。なんしょあっちん方家あるで落ちたらホントたまらんにい。」
そりゃあまあ若い衆は方言を避ける傾向にあるのは今日に始まったこんじゃないだで人の事言えた義理じゃないにしても、歳とりゃあ自然と回帰するだでちったあね。使えたあ言わんでも聞き取りはきちっとして言い回しとか忘れんようにもしてくれんとをと思えるだよを。
ちなみにタイトルの「上手くない」。
「うまくない」と読むのは標準語。断定するのは無謀な暴挙ではあるが
遠州弁なら「じょうずくない」と読む。
対象者によって三段階に使い分けされる表現。まあ間違いなく共通語なのだがそれでも「くれる」を未だによく使う地域として特徴があるのかなと思い記載。
尚、ここで述べる「くれる」は「誰かがやってくれるだろう」とかいう意味使いの「くれる」ではない。「成敗してくれる」とかいう意味使いの「くれる」である。
「物をあげる」を例にすると
「物をあげる」丁重さがある。
「物をやる」まあ普通。
「物をくれる」上から目線。
仏壇にお水を供える時には
「仏壇にお水あげて頂戴」であり
家人にお水を渡す時には
「お兄ちゃんにお水やって頂戴」
ペット用に水を汲む時には
「クロにお水くれて頂戴」
目上とかに「やる・くれる」を使えばえらそうにとなる。横並びに「くれる」を使うとむっとされる。ペットに「あげる」を使うと溺愛と思われる。
敬語っぽくだと「あげなさる・やりなさる・くれなさる」とかだと少しはお上品な感じになる。でも実際は「あげんさる・やりんさる・くれんさる」という言い方の方が普通だけど。
では、「やれることができる」という場合は
「あげれる・やれれる・くれれる」
手伝うだと
「手伝ってあげれる」
「手伝ってやれれる」
「手伝ってくれれる」
と遠州弁お得意の「ら」抜き言葉と相成る。ちなみに「ら」抜きしないで
「あげられる・やれられる・くれられる」
だと「やることが可能な状態だ」といった風にとられ敬語としてとられる可能性は薄い。まあ「ら」抜きと大きな意味の違いはないのだけど。
人に物を頼むような時に「くれる」を使うと一応へりくだっている勢いになる筈なのだが。
「お腹すいたでなんかくれろ。」
実際はとてもそんな感じには聞こえない。このように横柄に映るが気持ちとしては一応へりくだって(自らを卑下して)いるのである。かも。