遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
「飛ばしてみるかい」と言っている。テレビで浜北の衆がこう言っていたのをスケッチしたのであるが。
意味は分かるけど実際自分が言うとなると「とばかいてみるけ?」というだろうなと思った。
もう少し細かくして「とばさいた」・「とばかいた」としてみる。
私の感覚だと「とばさいた」は「とばさせた」で「「とばかいた」は「とばかせた」となる。鳥を放つとか自らが飛行能力のあるものをというのなら「とばさせた」で違和感がないのだが、紙ヒコーキとか竹とんぼとかみたいな他の力が加わってこそ飛ぶようなものに対しては「とばかせた」という方がしっくりくる。もしくは「とばかして」か。
かくも同じ遠州弁といっても異なるものであり、統括統一して「これぞ遠州弁」と謳ったものを誰かが作り上げたとしてもきっとそれぞれの集落から異存が出るだろうなと思った次第。でもだからといって浜北言葉浜松言葉掛川言葉とかで凝り固まったら「遠州」という表現の意味はない訳で微妙。
言い方は違えども意味は通じ合うというツボだけは同じというのがいい形なんだろうなきっと。
特に遠州独特という言い方はないのだけれど、それぞれのニュアンスには地域差とかあるのかもと思って記載。おじいちゃんを挙げたがおばあちゃんに置き換えてもほぼ同じと思われる。
でも実のところ列挙してみたらほとんど共通語の使い方であったとさ。って感じですな。
じいじ
「じいじあれ買って」 ほぼ身内の祖父に向かって言う表現。本人が孫とかに自分の事を告げる場合にも使われる。
じじい
「あのじじい嘘ばっかこきゃがってえ」 この野郎という時とかに放つ表現。発言者及び対象者は親族他人に拘らない。
じいさま
「あそこのじいさま昔ど怖かっただにい今あ丸いけど」 まずもって他人のおじいちゃんに向かって言う表現。多分に敬っている目上の印象を与える。逆に自分の身内に放つと他人行儀(ひな壇に置いたよう)な距離感という印象を与える。
じいちゃ(おじいちゃ)
「今手え離せんでじいちゃに構って貰いな」 親しい距離という印象を与える。他人でも親しい間柄であれば使われる。
じいさ(おじいさ)
「やあおじいさ、なにゆってるだあ」 他人に対して放つ表現。ボケかました相手とかにも使うので年齢に捉われない使い方をする。「お」をつければ多少は和らぐ。おばあちゃんが自分の連れ添いを指して言う場合もある。「ちゃ」と「さ」の違いは親密感が「ちゃ」の方が強い感じであろうか。
じじ
「じじばばにゃこんくらいん丁度ええだあ」 個人を指すのではなく一般的にはという勢いでオタクだとかギャルだとかと同じような括った言い方。
おじじ・じい・じいちゃん(おじいちゃんは使うので別物)
あまり普段使いでは聞かない印象がある。遠州ではそう使わないのかも。
例文
「おめえんとこのじいさまえらい羽振りんいいっつうじゃん。」
「孫にはの。うちのじいちゃ孫には甘すぎるだよ。『じいじ~』とか言って甘えりゃすぐ財布弛むでの。その分オレにくりょっつうだあなあ。」
「でもまあ最近のじじばばみんな元気だでなあ。もんりいしてくれるでその分助かるだらあ。」
(でもあれだよ。最近のお年寄りは元気だからねえ。お守りしてくれる分助かってるんだろ。)
「まあの。でもくれ過ぎてわがままんならんか心配だよを。」
「大丈夫だよ。親に似るだで甘やかされんでも十分わがままになる素養はあるって。」
「おめえそれ喧嘩売ってるだ?」
「ホントのことじゃん。」
はっきしゆって「浜松弁」なんぞという言い回しはうちの近所ではしない。つうか知らんにい。東京の浜松町での話しってことならわし知らんくても当然だけど。
しぞーか県の浜松市に生まれ育っていっちょ前に長いが地元の衆でそういう言い方をする人聞いたことが無い。と言い切ってみたところで実際検索してみると「浜松弁」と謳ってるサイトがごろんごろんあるだいねなんかしらんけど。
でも私は言いたい、浜松で使われている方言は「遠州弁」であると。
で、「遠州」というのは実は尾張や三河・駿河のような国名ではない。国名ということなら「遠江」の国なのである。しかるに「遠江弁」という人は「浜松弁」と同じくらいいやそれ以上に皆無に近い。
どうして今は「遠江」より「遠州」が普段使いされているのは私にはよく分からないが、「遠州」という呼び名は古くから言われていたらしい。規模は比べ物にならないが古くは関東を坂東と呼称したのと同じようなものか。それと較べて浜松という地名は徳川家康がこの地を治めるようになってからといわれている。(余談だが静岡は明治になってからで大昔からではない。)
私は根拠が有って言ってる訳ではないが遠州弁は独自に変化発展したものではなくて古い日本語が変化が少なく済んで残ってる方言だと思っている。なので浜松と呼ばれるようになった時代頃に発生したみたいな印象を与える「浜松弁」というのは好きくないし浜松でしか使われていない狭い範囲の方言ではないという考えもある。
まあ感情論であり言葉の綾なんですけどとにかくそういうことで
だもんで「浜松弁」なんて知らんにい。
ただ、地域によってその言葉は微妙に異なり、会話にズレが生じたりすることがない訳ではない。新居雄踏言葉とか庄内言葉とか浜北言葉とか掛川言葉とか色々あることは事実である。
なのでそういった違いから「浜松ことば」という表現があるとしたならそれはアリだとは思う。
なので「浜松弁」はないが「浜松ことば」ならある。と思っておりますです。
そこんとこお間違いなきよう。遠州弁で言えば「そこんさあまちがわんでよを頼むにいホント」。
それは「にい」。
「だら」・「だに」は他国の衆らにはまずもって受け入れられないものであるようだが、若い女の子が「にい」を発するとそれなりに可愛く聞こえるというのをそこかしこで見聞きしたりている。もちろん女子限定で野郎が「にい」を連発したところでどうにもならないことであるが。
しかしながらその「にい」の使い道は
「やっちゃかんにい」(やっちゃ駄目だからねえ)
「いってもしんにい」(いってないでしょう)
「はあ行くにい遅れるにい」(もう行くよ遅れるよ)
「そうでもないにい」(そうでもないよ)
「しらんにい」(知らないよ)
とかで共通語に直してみれば分かるように決して優しい物言いという訳ではない。もしかして知らぬが仏なのか。まあ
「やっちゃかんでね」
「いってもしん」
「はあ行くでね遅れてもしらんでねえ」
「そうでもないら」
「知らんよを」
みたいな露骨さがない分可愛いく聞こえるものなのか。
少なくとも「にい」を連発するのは親しい証拠にはなり得るが、好意が存在するかどうかは推し量れる表現ではない。
うら若き女性ならば他の地方にいっても「らあ」と「にい」を言う分には許されるということなのだろうか。
目はつむるもんだろうと真剣に思っている私であるが。辞書とかで調べる限りでは「つぶる」(瞑る)が共通語で「つむる」は方言・老人語と書かれてあって、え?というお話し。
じゃあどこの方言なのかということに興味が湧くのであるが、方言・老人語と謳っているのは昭和の辞書で現代のネット辞書などでは共通語枠の中に収まっている。つまりもう今となっては広まっていて元が分かんないということなのか。
イメージとして「つぶる」(瞑る)と「つぶる」(潰る)が似通っているので「つぶる」に静かに目を閉じるような穏やかさを感じない。どちらかといえば力一杯な閉じ方を彷彿とさせる。ホラー映画観てて思わず目をそむける時とか子供が頭洗う時などは「つぶる」で、静かにとか穏やかにとか瞑想するとかなら「つむる」だろうと。
また、例えばいいとこだけを見ようとか言う場合「欠点にはこの際目をつぶって」みたいな場合には潰す揉み消す勢いの「つぶる」でないと。「つむる」だと違和感を感じる。
これが「さびしい」(淋しい)と「さみしい」(寂しい)とかくらい明確に違えばいいんだろうけど、「わびしい」(侘しい)が「わみしい」となるみたいな訛りとかであればメリハリもつくんだろうけど、「つむる」に関してはその中間みたいで曖昧だよなあと。
でも「わみしい」ってどこも言わないのかな。「つむる」も似たようなもんだとしたら「わみしい」も「つむる」も遠州弁って屁理屈が成り立たなくもないけど。いくらなんでもそりゃないかあ。
とにかく遠州全域かどうかは定かではないが、うちらの集落とかでは目を閉じるに関しては「つぶる」より「つむる」の方が多く使われる気がする。
尚、「つぶらな瞳」とかを「つむらな瞳」とかにはさすがにならない。
例文
「目えつむってみい。いいもんやるで。」
「なにくれるよを。」
「いいで早くう。」
「分かったよ。・・・・ってなによをこれえ。」
「チケット。ノルマきつくてやあ。ねえ買って。」
「馬鹿っつら。しかもくれるじゃないだ?やなこったい自爆こけ。」