遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
対象者によって三段階に使い分けされる表現。まあ間違いなく共通語なのだがそれでも「くれる」を未だによく使う地域として特徴があるのかなと思い記載。
尚、ここで述べる「くれる」は「誰かがやってくれるだろう」とかいう意味使いの「くれる」ではない。「成敗してくれる」とかいう意味使いの「くれる」である。
「物をあげる」を例にすると
「物をあげる」丁重さがある。
「物をやる」まあ普通。
「物をくれる」上から目線。
仏壇にお水を供える時には
「仏壇にお水あげて頂戴」であり
家人にお水を渡す時には
「お兄ちゃんにお水やって頂戴」
ペット用に水を汲む時には
「クロにお水くれて頂戴」
目上とかに「やる・くれる」を使えばえらそうにとなる。横並びに「くれる」を使うとむっとされる。ペットに「あげる」を使うと溺愛と思われる。
敬語っぽくだと「あげなさる・やりなさる・くれなさる」とかだと少しはお上品な感じになる。でも実際は「あげんさる・やりんさる・くれんさる」という言い方の方が普通だけど。
では、「やれることができる」という場合は
「あげれる・やれれる・くれれる」
手伝うだと
「手伝ってあげれる」
「手伝ってやれれる」
「手伝ってくれれる」
と遠州弁お得意の「ら」抜き言葉と相成る。ちなみに「ら」抜きしないで
「あげられる・やれられる・くれられる」
だと「やることが可能な状態だ」といった風にとられ敬語としてとられる可能性は薄い。まあ「ら」抜きと大きな意味の違いはないのだけど。
人に物を頼むような時に「くれる」を使うと一応へりくだっている勢いになる筈なのだが。
「お腹すいたでなんかくれろ。」
実際はとてもそんな感じには聞こえない。このように横柄に映るが気持ちとしては一応へりくだって(自らを卑下して)いるのである。かも。
「ブルータスよお前もか」というセリフを遠州弁にしたらどれが一番近いニュアンスになるのだろうか。
単純に変えるなら「ブルータスうおんしもだか」辺りだけどそれじゃ能がないのでもう少し味付けしてみると色々言い方が浮かんで来る。まああくまで言葉遊びのおちゃらけですけどね。
「なによをブルータスあんたもけえ」
「なにいブルータスおめえもけえ」
「なにやあブルータスおんしもかや」
「なんでよブルータスおんしもだあ?」
「なんだやブルータスおんしゃあもを!」
「なんでブルータスもよを」
「うそっブルータスおんしもっ?」
「あれやあブルータスおんしもだ?」
「あれえブルータスあんたなにやってるよを」
「なんでえ?ブルータスぅまでえ?」
「勘弁してやあブルータスまでえ」
「ブルータスまで随分じゃん」
「ひょんきんじゃんブルータスまでもけえ」
「やあなんだやあブルータスまでえ」
それぞれ微妙にニュアンスが異なるのであるが
凄く意外ってことなら「うそっブルータスおんしも?」かな。
状況が分かってない程動揺してるってんなら「なんでえ?ブルータスぅまでえ?」か?
もう泣きそうって勢いなら「やあなんだやあブルータスまでえ」辺りか。
冗談じゃないよと憤慨してるのなら「なんでブルータスもよを」か。
冗談じゃないよと憤慨を越えて呆れてる(むしろ放心)なら「勘弁してやあブルータスまでえ」ぐらいか。
全く状況が分かっていないって勢いなら「あれえブルータスあんたなにやってるよを」かな。
一番冷静なのは「なによをブルータスおんしもけえ」かな微妙だけど。
結論じゃないけど、ひとつ言えることは名文句も遠州弁にすると台無しになるという事だけは間違いないようだ。
これが違いの全てではもちろんないのだけれど、こういう使い分けの違いというものもあるよということで。
「おっきいら」だと「「大きいでしょう」
「おっきいだら」だと「大きいんでしょ」
「ほれみいおっきいら」(どうだ見なよ大きいだろう?)
「あそこ有名じゃん名物おっきいだら?」(あそこは有名じゃないの名物が大きいんでしょ?)
「ら」は実物を前にして「だら」は実物がない状況で
と言った風に使い分けをしているのであるが、これが「づら」を使うとどちらでも使える。もちろんイントネーションの違いによって使い分けがなされてあるので混同することはないのだが。
ちなみに「おっきいだ」となると「大きいんだ」といった風になり語尾を上げれば「大きいのか?」となる。
「やっぱおおきいだ。」(やはり大きいんだ)
「やっぱおおきいだ?」(やはり大きいのか?)
例文
「大仏ってやっぱおっきいだ?」
(大仏ってやっぱり大きいのかなあ。)
「そりゃおっきいだら。」
(そりゃ大きいでしょ。)
「どんくらいおっきいだかいねえ。」
(どれくらい大きいのかなあ。)
「知らんよを。見たこんないもん。」
(知らないよ見た事ないから。)
「さびゆく浜松よりかはおっきいだら。」
(さびゆく浜松よりは大きいんでしょ。)
「そりゃおっきいら。っつうか較べるもんがおかしいに。」
(そりゃあ大きいでしょ。っていうか較べる対象が変だよ。)
例文音声はこちら
「来ない」と言っている。細かくいえば「来やしない」ということか。
この「来」を「き」というか「こ」というかでの違いはどう違うのか。
多少寄り道するが、古語辞典では「こ」(来)はこう説明されている。
「く」(来)の命令形。「く」の命令形は「こよ」であるが、中古までは「よ」をつけないで用いられた。
と、ある。
カ行変格なので「こ・き・く・くる・くれ・こよ」。つまり「き」は連用形で「こ」は未然形か命令形ということになる。
ちなみに遠州弁では「こっちこ」(こっちに来なさい)という言い方があり、そんなことはないとは思うが上記の論法で言ったら遠州弁は凄い古い日本語を使ってるということになる。まあ普通に考えれば未然形の「こ」だろうなここはやっぱし。それに「こっち来なさい」の他の言い方として「こっちこぉ」とか「こっちへおいで」というニュアンスだけど「こっちきい」ってのもあるし。
ま、そんな自分でも理解できていない辞書からの受け売りの小難しいことはともかくとして、そんな事とは関係なく個人的な感覚でいえば
「待ってるのにきやせん」だと「待ってるけど来ない」。遅れる理由がなんかあったのかなあという気になる。この後に続くとしたら「なにしてるだやあ」とか「なんかあっただかいねえ」とかが違和感がない。
「待ってるのにこやせん」だと「待ってるのに来ないじゃないか」と憤慨度が高くなる勢いを感じる。この後に続くとしたら「あいつなにやってけつかるだあ」ってな勢い。
「くるっつっただにきやせん」では「来るって言ったのに来ない」
「くるっつっただにこやせん」だと「来るって返答したのに来ようとしない」みたいな確信犯的にあいつ来ないんだという感じになる。
もちろん「き」と「こ」を入れ替えても意味は成すのであくまで個人的な感覚なのであろうが。まあ「き」よりも「こ」のほうがキツイ物言いには聞こえることはそう間違いではないのではなかろうか。
それと年長者など目上が下の人に言う言葉は「こ」が基本で「き」でも可という感じで同列とかだったら「き」が基本で「こ」を使うとえらそうな感じになるって考えもあるな。ちなみに目下が目上にという丁寧な感じだと「こられえせん」・「こられやせん」といった感じで「き」は使わない。
ところで「せん・しん」(せぬ・しない)を「へん」に代えるとその意味合いはどう変わるかというと
「きやへん」・「こやへん」
「へん」は「せん・しん」と較べて柔らかい感じになるので「おっかしいなあ」といったニュアンスが強まって憤慨度が隠れる感じになるので「き」と「こ」の違いはあまりない印象になるような気がする。
あくまでなんのまとまりもない私見である。
「飛ばしてみるかい」と言っている。テレビで浜北の衆がこう言っていたのをスケッチしたのであるが。
意味は分かるけど実際自分が言うとなると「とばかいてみるけ?」というだろうなと思った。
もう少し細かくして「とばさいた」・「とばかいた」としてみる。
私の感覚だと「とばさいた」は「とばさせた」で「「とばかいた」は「とばかせた」となる。鳥を放つとか自らが飛行能力のあるものをというのなら「とばさせた」で違和感がないのだが、紙ヒコーキとか竹とんぼとかみたいな他の力が加わってこそ飛ぶようなものに対しては「とばかせた」という方がしっくりくる。もしくは「とばかして」か。
かくも同じ遠州弁といっても異なるものであり、統括統一して「これぞ遠州弁」と謳ったものを誰かが作り上げたとしてもきっとそれぞれの集落から異存が出るだろうなと思った次第。でもだからといって浜北言葉浜松言葉掛川言葉とかで凝り固まったら「遠州」という表現の意味はない訳で微妙。
言い方は違えども意味は通じ合うというツボだけは同じというのがいい形なんだろうなきっと。