遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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以前「いづようない」(居心地悪い)という記事で「ず」か「づ」かにおいて「づ」を採ったのであるが。似たような表現の「せずようない」で「ず」か「だ「づ」かかを考えた場合。
「せずようない」。「せ」(し)+「する」+「よう」+「ない」で「する用ない」と考えた方がしっくりくる気がしてきた。
「せづようない」だと「せ」(し)+「つる」+「よう」+「ない」だと「つる」って何?という事になる。
まあ「す」+「する」と重複するのでいまいち説得力に欠けるところではあるがそれでも
「いづよう」だと「いづる」+「よう」で合うよなあとなんとはなしに思ったのだが、合うのはこの言葉だけのようでやはり「い」+「する」+「よう」+「ない」で「居てもすることない」というのがまともだよなあ。
ちなみに「居てもすることがない」と訳したい場合は遠州弁は「いずようんない」と「ん」が入らないとそうならない。
そう言う事で翻意して「いずようない」・「せずようない」という事に訂正することといたします。ころころ変わってごめんなんしょ。
こういうのって歴史的仮名遣いか現代仮名遣いかということもあろうし、そこいら辺は諸々無い知恵なりに絞って統一したパターンにしていきたいものだいね。
なにで見ただか記憶んないだけが、「そうだら?」とかの「ら」は古語の「らむ」だにいという旨を述べている書き物を見た覚えがなんかしらんがあるだよ。
ホントかや?と思ったもんで、だで無い頭で検討してみすかあっつうこんにしただよ。
(共通語に直すと、何で見たのか記憶が定かではないのだが、「そうだら」などの「ら」は古語の「らむ」に起因しているという趣旨の事を述べている文章を読んだ事がある。そうなのか?とふと疑問に思ったので不肖ながらも検討してみることにする。)
何かは失念すれども遠州弁の「ら」は古語の「らむ」の変なりとの説を読みたり。然れども幾分の疑問これあり。よって検討せんと欲す。
まず「らむ」ってなんぞやというこんで辞書ひくだあれ。の。
「らむ」{助動詞}①現在の事実について、想像・推量する意を表す。他にも説明があるがとにかく想像・推量を表わすということが書かれてあった。
他には完了の助動詞「り」の未然形に、推量の助動詞「む」の付いたもの。ともある。
「らむ」→「らん」→「らう」と変化してきているとも書かれてありおそらくは「らう」→「ろう」と流れで繋がってきているのであろう。
遠州弁って他の方言と違って大抵は辞書か古語辞典引くと近い言葉が引き出せるんで結構屁理屈こねるに楽っちゃあ楽なんだわぁ。っつうこんで「ら」。
「ら」完了の助動詞「り」の未然形。ということで
「り」{助動詞ラ行変格活用型}①ある動作の完了した意を表す。②完了した動作が現在にまで行われている継続・存在の意を表す。とある。
つまりは、「り」の未然形ということの「ら」だけで遠州弁の「ら」を説明できてしまうような気がしないでもない。それと変化として撥音便を好む傾向にある遠州弁からして「らむ」であるのなら「らん」と言うのが「ら」よりも自然な流れのようにも思えてくる。
例えば「明日は雨だろ」は遠州弁だと「あした雨だら」となる。
「雨だろう」なら「雨だらあ」という次第。「雨だらん」とは言わないとこである。
想像・推量という事で「雨が降るらしいよ」を
「雨ん降るらむ」とは言わず普通は「雨ん降るみたいだに」と言う。「雨ん降りそうだら」だと「雨が降りそうだよ」・「雨降るら」だと「雨降るだろ」
つまり言葉の綾かもしれないが遠州弁の「ら」は憶測(推測)・予想を表わすものであって想像・推量を表わすものではないのかもしれない。
想像・推量であるならむしろ「らあ」という事になる気がする。
よって遠州弁の「ら」は「り」の未然形の「ら」であって「らあ」が古語の「らむ」と同じなのではなかろうかと邪推してしまう今日この頃。
「やらまいか」を論より証拠的なまず行動という前向きなニュアンスで「(とにかく)やってみようじゃないか」と訳すのは遠州人からすると違和感を感じる。実はそんな大層な言い回しではないぞよと。
まあ、最早浜松精神のシンボルに祭り上げられているからそれを否定してもせんないことではありますしそんな意思もないところでありますが。とりあえずは実用としての「やらまいか」を説明しておこうかと。
「やってみようじゃないか」は「やってみまい」・「やるかあ」であろう。
以前にも記事にしたが「やらまいか」は「やろうよ」であって、全国に広がっているごちゃごちゃ抜かさずとにかく動こうという叱咤激励ではなくて俺もやるから君もやろうという勧誘の表現である。つまり「やらまいか」と言っておきながら「じゃあ行ってらっしゃい頑張ってね」とかいうあんた頑張る私応援とかいう事になると「嘘つき」と呼ばれる事になる。
「雨もあがっただでそろそろ続きやらまいか」という使い方であって
「ごちゃごちゃこいても始まりゃせんだでなんしょやらまいか」というよりも
「ごちゃごちゃこいても始まりゃせんだでなんしょやってみまいや」という方が自然である。
ちなみにやって「やろうじゃないか」という言い方は他にもいくつかあって
「やってみすか」
この場合のニュアンスは「試しにやってみようじゃないか」というものである。
「やったるにい」
この場合は「代わりにやってあげようじゃないか」というニュアンス。
「やったらあ」
の場合は「俺がやるからいいよ」というのと、言った手前後には引けぬ状態での「いいよ俺がやるよやりゃいいんだろ」という宣言っぽい二通りが考えられる。
ちなみに以前にも説明したが「やらまいか」と「やらまい」の違いは
「まいか」が勧誘で「まい」が軽い強制である。
普通は「じゃあ」の表記で一本化されてるところであろうが
「ぢゃあ」と「じゃあ」は存在していてそれぞれ使い分けがなされているのではないかとふと思ったので記載。これが遠州弁独特なものなのかは定かにあらず。つうか共通語だろうかなやっぱ。でもせっかく書いたので記載。
「ぢゃ」と発音するには口を広げなければならず表情としては笑顔で口角が上がるのに近いものになる。
そういう事に因果関係があるのかは定かではないが
「ぢゃあさあこうしまい」だと「それならこうしようよ」と新規の提案という勢いと感じられたりする。
「じゃあさあこうしまい」でも「それならこうしようよ」と訳は同じであるが折衷案というか妥協案というか落としどころを考えてのという勢いに感じられる。
他には「ぢゃあね」。別れの際の言葉であるが「じゃあね」よりもこちらの方が合ってるような気がしないでもない。
ネットで「遠州弁」をキーワードで検索してたら以下の説明がなされているとこにヒットした。
「形容詞 形容動詞の形容詞化」一部の形容動詞の末尾に、形容詞を形成する接尾辞「い」を 付加することによって、形容詞化する用法がある。例:「横着い」(=「横着な」)、「 上手(じょうず)い」(=「上手な」)、「丈夫い」(=「丈夫な」)。
以上。確かにっと思う部分も有り、いやさ待ちやいという部分も是れ有り。
「横着い」は聞いたことも使ったこともないのでここではパスしていくつかの例文を訳してみると
「ほれみい丈夫い服だらあ」(ほらご覧なさい丈夫な服でしょう)
「あれあんた上手いじゃん」(おやあなたうまいじゃない)
「丈夫いで着てみない」(丈夫だから着てみなよ)
「あの人上手いでやってもらいない」(あの人上手だからやってもらいなよ)
と訳するのが違和感がないところである。
こういう風に並べていくと「い」=「な」と説明するのは「?」があるかや。
多分「デブい」とか「今い」・「ナウい」の遠州弁版ということを説明されてるんだろうけど実際の使い方に当てはめようとするとあまりの無法地帯であるがために無理がどうしても感じられるんだよな。
上記の例文は
「丈夫な服だらあ」
「上手な人じゃん」
「丈夫な服だで」
「上手な人だで」
といった風に実際に使ってる感覚的でいうと「上手な人」とか「丈夫な物」とかで「~なもの・ひと」と言うべきところを「い」を使った場合「人・物」は省略して言うことになるとかいう条件を付けておくなどでないと「い」=「な」を説明するには厳しいものがありそうだ。
でないと「丈夫いで着てみない」の訳は「丈夫なで着てみなよ」となって「?」ってことになりかねない。
もしくは「な」ではなく「なの」とすべきか。
追記
これはどこぞのホームページにあったけものだけどウィキペディアの遠州弁の項目の中に全く同じ文章があったのを後で知った。やっぱ転載は明記しとかないと自分(HPの管理人)が講釈垂れてるように思われかねないので出自は書かないといけないよな。
でもそうすっとあれか?この記事ってウィキに異論唱えてるって事になるのか?まあウィキは理屈で自分は現実というフィールドが違うということで決して楯突いてるつもりはござんせん。と言い訳こいとこ。
なんしょ現実はだあだあだもんでねえ。理屈で縛れんことあるだよを。