遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
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つらつら考えるに「だで」は「だもんで」の略形などではなく全く別の似た言葉なのではなかろうかと。
共通語に訳さば
「だで」は「だから」。「だもんで」は「なもので」。とするのが違和感がない。
しかしながら
「だからいけないんだろ」という言い方はあるが「なものでいけないんだろ」という言い方は不自然であるのだが
「だでかんだら」・「だもんでかんだら」共に遠州弁では違和感は感じないし意味的にも違いがある訳ではないという現実。
こうなると「だもんで」の訳が「なもので」では的を得ていないということになってしまう。
実際「だでかんだら」・「だもんでかんだら」どちらも「だから駄目なんだろ」という意味合いで遠州人は使っておりその違いはちゃんぽんであり曖昧である。
使いどころとしてどういう時に「だで」で「だもんで」と使い分けているのかと問われると
「だでだら」(だからだろ)と「だもんでだら」(だものだからだろ)どちらを使うかといったら「だもんでだら」でその訳は「だからだろ」という事になってる。かように一部使い分けは存在するが混在してる使い方の方が随分と多い。
つまり別物とする根拠が見つからない。となると別物という考えは愚案ということになるのだが、なんか違う気がするんだよなあ。
例文
「なあんか上手くいかんと思ったら部品一個はめ忘れてたやあ。」
「だでゆったじゃん。ちゃんと確認しときなって。」
「だもんでゆったじゃん。ちゃんと確認しときなって。」
感覚としての違いは後の祭りというか「だもんで」の方が随分前に言ったという印象が湧く。それに対して「だで」はさっき言ったみたいなホカホカな印象が湧くところである。別の違いを考えると
「あれほどゆっただにだでそうなるじゃん。」
(あれほど言ったのにしないからそうなるんだよ。)
「あれほどゆっただにだもんでそうなるじゃん。」
(あれほど言ったのにしないもんだからそうなっちゃうんだよ。)
訳は直訳ではなく大分飛躍したものであるが、「だで」を使うと明確に失敗な結果だと断じているような勢いになり「だもんで」を使うともっと結果を分析してるかのようなゆるやかなたしなめといった勢いになると感じられる。つまり強く言う場合は「だで」それより弱めに言う場合は「だもんで」という違いがあるように思える。くらいか。
「だで」と「だもんで」は別物か?の記事でコメントを戴きまして(ありがとうございます)
「だで」は結果に重点が置かれ「だもんで」は原因に重きがいっているという違いがある。というのはまさにその通りでありまして
「そんなんだでかんじゃん」
(そんなだから駄目なんじゃない)
「そんなんだもんでかんじゃん」
(そんな有り様だから駄目なんだろう)
という違いは明らかにありますな。ご提案感謝いたします。
他にこういう説明の方がいいのかなと気づいた事としては
「だで」は言い放ちの指摘できつく聞こえ「「だもんで」は~なんじゃないのか?という風な同意を求める和らげた言い方という違い。
「だでかんだら」(だから駄目なんだろ)
「だもんでかんだら」(だから駄目なんじゃないのか)
という違いを感じる点もあろうかな。
まあ、実際のところは違いを意識して使い分けてる事は少なくほぼその人の性格(言い切りたい人とぼやかしたい人)とかに沿ったどちらかの言い方を選択してるところであるように思えるところです。言い方によっても結構強弱はつけられますし。
それに「だでかんだら」という言い方をよくする使い手が普段通りに言い切るにはどうもというような際には「だでかんだら。そう思うよを」と付け加えるとかで対処するようなことをして強弱を調整している事も多いと思われるところです。
それと「かん」につきましてはちょっと地域特性を感じましたので、そのうちまた新たな記事として起こします。(興すと書くにはおこがましいので)
原住民でいる限り当たり前すぎて地域性に気づかない点もたくさんあります故、外にいるからこそ気づくみたいな点がございましたら今後もお教えくだされば幸いです。
「あんがとない」
本家ではないにしてもなんか遠州弁っぽくもあり遠州で存在しても不思議じゃない感じがするが、実際こういう使い手に遭遇した経験はないから遠州ではこういう言い方はしないんだろうな。
これが「あんがとね」とかだったら聞いた事がある。
ただし「ありがとね」と較べると軽薄な印象がするのでなにかしらの(照れとか立場上とか)言う事に躊躇する状況とかが付加されていると判断されないとなめた物言いと取られる。
話し戻して「あんがとない」
一体どこの言葉なんだろうか。ネットで検索してもたくさん色んなところで使われてる(多少おちゃらけ的用途が多いが)のでよく分からない。
共通語と違う点は「り」が「ん」に変化してる点と「ない」という言い回し。
撥音便化ということで「り」が「ん」にというのは遠州弁でも得意技であるが
「ない」の使い方が遠州弁とは異なるところである。
「ない」は「なよ」。「い」は軽い命令を表わすというのが遠州弁における「ない」であるが、強引に遠州弁的理屈で解釈すると「ありがとよ」という訳になる。吐き捨てっぽい印象を受けてしまいそうである。
この場合の「ない」は「ね」という意味であろうから「ね」ということであるを遠州弁的屁理屈をごねれば「に」であり「あんがとに」となる。でもそんな言い方は存在しないのだから所詮屁理屈である。素直に「あんがとね」だろうな実用使いとしては。つまるところ「ありがとない」の「ない」は遠州弁的ではないということか。
さて、実際に「あんがとない」を耳にした場合やはり「ありがとよ」という印象は受けないので遠州弁的理屈では解読できないところである。実際受ける印象はおじいちゃんとかが「ありがとねおかげで助かったよ」みたいな感謝の表現に聞こえる。
遠州弁っぽいけど遠州弁ではないなこれは。もちろん多分だけど。
「やらない」を例にすると
「やらへん」・「やらせん」は「やろうとしない」と訳せる。
「やりゃへん」・「やりゃせん」の訳は「わざとやらない」と訳せる。
「やりゃあへん」・「やりゃあせん」だと「やりやしない」という訳になる。
シンプルに「やらない」は「やらん」。「やりゃん」という言い方はない。
蛇足であるが「やりえん」だと「やれない(出来ない)」という事になる。
さて、「へん」と「せん」はどういう違いがあるのかというお話し。
どちらも遠州弁として使われる表現である。
訳す場合にも明快な違うがあるわけではない。イメージ的には「へん」は関西風の味がする。撥音便を元に戻すと「へん」は「へぬ」で「せん」は「せぬ」になるのであろうか。「へない」・「せない」という手もあるが「へない」はないよなおそらくは。
幾分強引に違いを探すとなると
「やりゃへんよ」だと「やらないよ」
「やりゃせんよ」は「やりはしないよ」
例を「出来る」に代えてみると
「できへん」・「できせん」
出来ない理由が異なって聞こえる。
「できへん」だとなんらかの準備が足らなくて(道具がないとか人数があつまらないとか)で出来ない風に聞こえる。つまりやりたいのだが出来ない。
「できせん」だとなんらかの障害があって出来ない風に聞こえる。どちらかといえばやるやらない以前に出来ない。
誇張気味ではあろうがこういったニュアンスの違いが感じられなくもない。
どちらも「やろうか」と促しているのであるが、これの違いはどう違うのかというお話し。尚、「やらまいか」は含まない。あれは別種。
「先やらまい」
「先やりまい」
これだと強要度は「やりまい」の方が強く感じられる。つまり
「先やらまい」(先にやろうよ)
「先やりまい」(先にやっちゃおう)
といった感じであろうか。
別の言い回しで考えると
「これ買わまい」(これを買おうよ)
「これ買いまい」(これを買おうぜ)
パターン例としては
「やるかあ。いいじゃんやらまい。」・「ええでやらまい」・「なんしょあれだでとにかくやらまい」
「やりまい」に関してはあまり定番のパターンが浮かんでこない。つまりごちゃごちゃ抜かさんと「やるぞ」と言い切っているからであろうか。
そういう意味では「やらまい」はあの手この手で勧誘してるということになる。
ところがこれが「やらまいか」となると勧誘表現である事は「やらまい」と同じなのであるが何故か断りにくい言われ方である。
断りづらい順位でいくと
やるらあ<やるかあ<やるでえ<やらまい<やりまい<やるにい<やるだあ<やるだよ<やらまいか
あくまで個人的な順位付けですのでお間違いなきよう。尚、他にも言い様(よう)は「なんでやらんよを」とか「やらにゃかんじゃん」とかあるがきりがないので。
これ以外に「やらまい」と「やりまい」の違いは立場の違いというのもあろうか。
「やらまい」は目上には発しにくい。
「やりまい」はその点場合によっては目上に発しても許容範囲内に収まることがある。
最も目上に対して無難な物言いは「やるかあ」であろうが。これも親密度がなければカチンとこられるところである。