遠州弁を集めています 主に昭和の遠州弁で今は死語となってるものもかなりあります
「づら」から「だら」へ。そして最近は「だら」から「らあ」へと移行しつつある遠州弁。
行くんでしょを例にとると
「行くづら」・「行くだら」・「行くらあ」と言う風になる。もっと省略されて「行くら」といのもある。
言葉はホイホイ変わるものである。がんこ人がいても、瞬間的ではないにせよ10年一昔で変わっていく。
じじばばから孫へ連なっていった時代はもう昔の事。同年代の同じ時代の共有者同士で形成されていくようになっている今日この頃。だから世代によって物言いが違う。いいか悪いかの問題ではない。昔の方が地域性があって懐かしいというつもりでもない。
私の遠州弁は今の時代の言葉ではない古臭いものかもしれない。でもこれで生きてきたんだから違ってはいない・・・・筈。
「言う」をいうと発音する人は遠州では少ないと思われる。普通は「ゆう」が多い。
「よをゆうた」(よく言った)・「よをゆうわ」(よく言うよ)・「なんちゅうことゆうよを」(なんて事を言うんだ)・「ゆったもん勝ち」(言った者勝ち)・「ゆわん方悪い」(言わない方が悪い)・「ゆっちゃかんでねえ」(言ったら駄目だからねえ)などなど
例外的な「なんちゅうこんいいくさる」(なんてことをゆうんだ。)ものもある。中にはきっちし方言を守って「なんちゅうこんゆいくさる」と言う人もいるが。そういう方向で、「言い草」を「ゆいぐさ」と言う人も当然いる。「物言い」だけは今のところ「ものゆい」と言う人に出会ったことは無い。
言うと云う表現のほかに
「こく」・「たれる」などもある。
*たれる 文句たれる・ぶ~たれる・ぐちたれる
あまり前向きな言葉に対して使われる表現ではない。
*こく なにこく(なにを言うか)・ぶつくさこく・ためこく(タメ口を言う)
こいた、こきゃあは同じ
*ゆう なにょゆうだあ・なんでそんなことゆうよを・よおゆうわ・わしんゆうこん聞けんだか
例文
「ああそおゆうこんゆうだあ。ふ~ん。」
(嗚呼そう言う事を言うんだ。へ~。)
非常に突き放した嵐の前の静けさのような冷たい表現。その雰囲気を察知して
「いや、わし別にそうゆうつもりで言ったじゃないだに?」
「じゃどうゆうつもりでゆっただ?」
言い訳したために逆に火に油を注いでしまった会話。この後は沈黙か早々に退散となるが一番。
遠州弁でよく使われる言葉。例えば「やあ行って来いやあ」という言い回し、ここでは「やあ」がふたつある。これは繰り返しか別物なのかとかいうどうでもいい細かい話し。自分の言葉では説明が上手くできないので辞書等の小難しい理屈を引用してみる。
古語辞典によると
「や」{感動詞}①呼びかけに用いる。②驚いたとこ、また、思いついたときに用いる。③はやし声または掛け声。
「や」{間投助詞}①感動・詠嘆を表わす。②問いを表わす。③呼びかけの意を表わす。④和歌・俳句などで、音の調子を整えるために添える。⑤事物を列挙していう。
「や」{近世語}「ある」の転と考えられる助動詞「やる」の命令形、「やれ」のの略。軽い敬意を含んだ命令を表わす。・・・なさい。
「やあ」{感動詞}感動詞「や」に同じ。掛け声。呼びかけにいう。
「やい」{終助詞}感動を持って強く呼びかける語。
「やい」{近世語}「ある」の転と考えられる助動詞「やる」の命令形、「やれ」のの略か。軽い敬意を含んだ命令を表わす。
国語辞典から該当しそうなのは
「や」{終助詞}①同輩・目下の者を軽く促す気持ちを表わす。②自分自身に言い聞かせるな気持ちを表わす。③名前の後に付けて、呼びかけることを表わす。④{雅語}感動の気持ちを込めて文を終止したり、その言葉を述べることを表わす。
「やあ」{感動詞}①驚いた時、呼びかける時などに出す声。②かけ声
「やい」{感動詞}(俗語)ぞんざいに呼びかける言葉
以上ほぼ丸写しした辞書で説明されてる事から考えると、例文を変えて遠州弁の「やあど痛いやあ」(うわあ、凄く痛いよを)は古語的には「や、ど痛いや」{感動詞・間投助詞}もしくは「や、ど痛いやい」{感動詞・終助詞}ということになるのであろうか。国語辞典で当てはめると少しニュアンスがずれるような気がする。呼びかけるは当てはまるけど掛け声でもないしぞんざいでもない。
「行って来いやあ」(いってこいやあ)だと「行って来や」(いってきや){近世語のや}なのかな。「いってこ」(行ってきなさい)という言い方もあるので「きや」でなく「いってこや」かもしれない。
そんなこんなで遠州弁の「やあ」は「やー」といった長音化ではなく「やあ」であり、古語辞典にある「や・やあ・やい」と同じと考えた方がしっくりくるところであり、「やあ行ってこいやあ」でのそれぞれの「やあ」は異なる言葉であるということが言える。気がする。
国語辞典での解釈で言えば粗雑な表現という解釈になるが古語辞典からの解釈をもってすれば粗野な方言ではないということになる。他の地域の人がどう捉えるかは置いといて遠州人からしてみればぞんざいな物言いという意識では使ってはいないので国語辞典の解釈ということではなかろう。
かくして遠州弁は汚い言葉などではなく古い日本語を使っている昔ながらの日本語なんだと言い訳が出来る次第。という自分達(遠州人)にとって都合のいい解釈。
「やあ」は「なあ」と訳せばいいのかどうか
もしかしたら「よう」?
個人的意見です。
感嘆という意味使いの「やあ」は別物として
「そうだと思うやあ。」の「やあ」は共通語に変換する際「なあ」と訳せばすべて丸く収まるのかどうか。
「そうだと思うやあ。」は「そうだと思うなあ。」でしっくりはまる。
「さっき出てったで行ってる思うけどやあ。」でも「さっき出て行ったから行っていると思うけどなあ。」ではまる。
「そうゆうけどやあおんしゃ。」で「そういうけどなああんた。」もはまる。
ここまでは「やあ」=「なあ」で違和感はない。
「見てくっでやああんたここにいない。」だと「見てくるからなあ、あんたはここにいなよ。」ではまりはするが「見てくるからさあ、あんたはここにいなよ。」と言う方がしっくりくる。
「こっちむいてやあ。」だと「こっち向いてなあ。」というよりも「こっちむいてよう。」とするのが自然であろう。
で、ふと思ったのだが、「やあ」=「よう」とした方がよりすっきりするんじゃないのかと。
「そうだと思うやあ。」→「そうだと思うよう。」
「行ってる思うけどやあ。」→「行ってると思うけどよう。」
「そうゆうけどやあ。」→「そう言うけどよう。」
「見てくっでやあ。」→「見てくるからよう。」
「こっち向いてやあ。」→「こっち向いてよう。」
と一部無理はあるが大抵はまりそうである。「やあ」は「よう」だが「や」となれば「や」の置き換えは「よ」になるという形も違和感がない。
「よう」といえば名古屋近辺でよく使われる言い回しでもあり名古屋弁の「よう」は遠州では「やあ」がそれにあたると言えそうでもある。
つまるところ「やあ」を「なあ」としても間違いではないが「なあ」より「よう」としたほうが合点が行く事が多いような気がする。
もっとも「よう」・「よ」の連呼は共通語の中に於いてあまりいい言い方ではなかろうから、「やあ」を一旦「よう」に直してそこから「なあ」とか「さあ」・「ねえ」とかに状況に応じて代えるという作業は必要ではあろうが。